『教会も成功狂に堕ち入ってしまった!?』=We've gone success crazy=

1959年夏  ロサンゼルスで 

伝道に上手や下手があるのでしょうか。
教会に通う人を増やす人が上手で増やせない人は下手なのでしょうか。

(6/21 校正版)

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★  先日、あるかたから、以上のような質問を電子書簡でいただきました。
そのほかにも、いくつかの大切な質問が添えられていました。

★  そこで、今から50年も前に、ロサンゼルスのウエストサイド教会に仕えていた
ときに、一世の皆さんにお話をした原稿を、ここで改めて紹介したいと考えます。

  なぜこのような題名でロサンゼルスの一世にお話をしたかということですが、その
前の3年間、すなわち、1954年から1957年までを、私は最初の留学地ケンタッキー州
ウインチェスターにあった大学で聖書を学んでいました。

  ケンタッキーに留学していた3年間で、ケンタッキー、オハイオ、インディアナ、
イリノイ、テネシー、アーカンソー、ジョージア、アラバマ、フロリダ、テキサス、
それにルイジアナ各地の教会を訪れました。

  ケンタッキーとテネシー両州の東部は、アパラチア山脈という、日本の本州よりも
大きな山岳地帯です。  そこに住む人のことを、ヒルビリーなどと蔑視して呼ぶこと
もあります。  純朴な人たちでした。  アパラチア山脈で営まれている日常生活は、
基本的に、開拓時代の生活と少しも変わっていないと考えています。

  アーカンソー州北部とミゾリー州南部に跨がるオザーク山脈、またはオザーク台地
と呼ばれている地域に住む人のことをもヒルビリー hillbillyと呼びます。
  時代遅れの山奥の住民とか、山男とか、田舎者というような響きを含む軽蔑語でも
あり自虐的な呼称です。  ロッキー山脈の中にもそのような人たちが住んでいます。

  そのようなアメリカの素朴な田園風の環境に慣れ親しんでしまっていた私が、次に
ロサンゼルスという大都会に出たとき、その物質主義の恐ろしさに圧倒させられたの
でした。  半世紀も前のアメリカは、ニューヨーク、ロサンゼルス、そしてシカゴが
三大都市であったのです。

  そこに住んでいた日系人教会の一世たちと謂ども、大都会の物質主義文明の影響下
にあったことは間違いのない事実でした。  人々はオカネのために一所懸命であった
と、のんびりしていたロッキー山脈の東側から出てきた私には、そのように直感した
のでした。  しかし、それにはそれなりの理由があったと、同情的に考えています。

  ほとんどの日系一世は、日露戦争後の国策に添って、長男以外は、海外に出稼ぎに
行け‥ということでした。  写真1枚で花嫁を日本から呼び寄せ、ジャップ Jap. と
差別されながら、居住環境も良くない中で、厳しい労働によく耐えた人々でした。

  ようやく子供が何とか育ち始めた時に太平洋戦争が勃発し、アメリカ史の汚点とも
なった日系人強制収容政策によって荒野の中に急造されたキャンプに数年間送られ、
そこから解放されてロサンゼルスに戻り、最初からやり直していた一世たちの教会に
私がローズ先生(横浜金沢教会と野毛山教会設立宣教師)の紹介で赴任したのです。
  ほとんどの一世たちにとって、オカネが最後まで追っかけて来ていたのでした。
そのような背景があって、上記の題名で一世にお話をしたのです。

★  それでは、半世紀も前に、ロサンゼルスのウエストサイド教会で一世にお話した
原稿を再現してみます。  幸い当時のメモを保管しておりましたので‥

★  キリスト教会もサクセス・クレージー success crazy病に罹ったのでしょうか?
答は『ハイ、そのとおりです。  ほとんど全ての教会がこの病魔に襲われています。
成功する=サクセス=success ということが、小文字の神 godになっているのです。
私たちは大文字の Godではなく、成功という godを拝み、仕えているようです。

  私たちが生きているこの時代は、サクセス=成功という発想が、私たちを支配して
いるのです。  サクセスが神なのです。  サクセスという考え方が、偶像の神なはず
が、あたかも本当の神さまのようになっているのです。  そして、私たちは、教会を
含めて、この深刻な問題にぜんぜん気づいていないのです。

★  それでは、成功、サクセスということの、どこが間違っているのでしょうか?
最初に言えることですが、成功=サクセスということ自体、決して悪いことではない
のです。  この点で、間違いのないようにしておきたいと思います。

★  成功、サクセスということが間違っていないというのであれば、それではどこが
おかしいのでしょうか?  どこが間違っているのでしょうか?
  それは、機械的な数字というものが、霊的なもの、霊的な質を超えて、霊性を無視
してまで、強調し過ぎるときに起こってくる危険性だと思います。

  たとえば、神さまを信じ、神さまを愛するとか、人々を自分と同様に愛するとか、
人々に優しくするとか、正直で誠実であるとか、そのように目に見えないものに価値
をおくというのではなく、目に見える数字のために、正常な心のバランスを保つこと
ができなくなる‥そういう危険性が、成功を求めるということに隠されていることが
多いからです。

★  神さまは、セールスマンのような基準でものごとが測られるというとき、決して
お喜びになってはいないのです。  このことに気づかなくなってしまう危険性がある
のです。  可視的な出来高の実績、統計上の数字だけで、霊的世界に属することがら
までが測られるという危険性を、神さまは決してお喜びになっていないと、私は考え
ているのです。

★  成功=サクセス=success は、聖書的な基準、聖書的な「ものさし」では決して
ないのです。  「成功」=「聖書的判断基準ではあり得ない!」このことを私たちは
強く肝に銘じておく必要があります。  教会の成功、牧師の成功‥絶対にこのような
間違った判断基準で測られてはならないのです。  それは行為義認主義に立脚する、
律法主義に基づいた発想なのです。  神さまも、聖書も、そのような発想と無関係な
のです。  そのような可視的数字を誇る教会や牧師は恩寵から離脱しているのです。
「成功した牧師」とか「成功する教会」を、聖書の「ものさし」は知らないのです。

★  むしろその反対に、旧新約聖書を通して、神さまは、身分の低い女性、弱い立場
の無名の人を用いて、神さまの大きな業をなされることが多いのです。
神さまは、人の目に触れることがないような、隠れた業を愛でてくださるのです。

  神さまは、人間の価値基準、数値重視主義の基準では、とうてい測ることができな
い、一見失敗に見えるようなできごとや人を用いて、神さまご自身の大きな業をなさ
ることがあるのです。

★  イェスさまも、使徒たちも、教会成長運動が唱える成長を知らないのです。
むしろイェスさまや使徒たちが知っている言葉は、誠実さ、忠実さという単語です。
英語の faithfulness という言葉です。  約束したことを堅く守るということです。

  成功=サクセスという言葉は、物質的、可視的な結果を意味するものです。
その一方、誠実さ、忠実さという言葉は不可視的な世界に属する言葉です。  霊的な
状態を表す言葉です。  霊的世界を語る言葉です。  成功・不成功に関係なしです。

  「成功 success」という言葉は、例えば申命記25章6節に「跡を継がせる」という
ような意味で聖書に出てきますが、5回ほど出てくるだけだと思います。
聖書的に考えて、たいした意味を持つ言葉ではないのです。

★  しかし忠実さ、誠実さ、忠実・誠実 faithfulness, faithful は、聖書のなかに
たくさん登場する重要な単語です。  数え始めたら相当な数になります。
  誠実な神さま‥忠実な神さま‥という表現は多いですが、「成功する神」というの
はありません。  上手な神さま‥下手な神さま‥これは聖書が知らないことです!

  たとえば、コリント前書1章9節は10章13節をご覧ください。  真実な神さま‥
という表現があります。  統計数字を増やす神さまというのはないのです。
テサロニケ前書5章24節や同後書3章3節は如何でしょう?
ヨハネ第1書1章9節でも、神さまが真実である‥と記してあります。

★  イェス・キリストは「成功した救世主」だったのでしょうか?
答は明白です。  「ノー! No!]です。
  しかし、主イェス・キリストは忠実なお方、誠実な救い主、十字架の死に到るまで
神さまと私たちに対して忠実なお方でした。  使徒パウロは、ピリピ書2章8節で、
主イェス・キリストは、己を低くされ、十字架の死に到るまでも従順なお方、忠実な
お方であった‥と証言しています。

★  初代原始教会は、それでは、成功した教会であったのでしょうか?
答は明確で、「ノー No!」でした。  しかし、福音を全世界に拡散させる伝道の業に
対して忠実であったのです。  コリント後書11章21節~33節は如何でしょう?
テモテ前書1章12節は如何でしょう?  成功しろ‥という命令はないのです!
テモテ後書2章2節は如何でしょう?  教会が求めているのは忠実な人々です。

★  聖書の「ものさし」というものは、物質的・統計数字的な「成功」という基準で
ない‥、そのようなことはあり得ない‥と、確信しています。

  聖書の基準は、いつも、どのような場合でも、忠実であること‥誠実であること‥
その一点に絞られていると確信しています。

  以上が、半世紀も前に、ロサンゼルスのウエストサイド教会で語った要旨です。

★  先日ある方から、『教会に通う人を増やす人(たぶん牧師のこと?)が(伝道)
の上手な人で、増やせない人(牧師?)が(伝道の)下手な人ですか?』という質問
がありましたので、昔のメモを紹介してみました。  お答できたかと考えています。

  そのような基準で自分を測っていますと、私など、下手の中の最低に下手な人物‥
ということになろうかと、そのように確信しています。  神さまの一方的なご恩寵に
よって貴い救いに与った者ですから、「成功者になること」など、全く眼中にありま
せん。  そのような発想自体が、恩寵に反する冒涜であろうかと確信しています。

  このような寒村僻地で、特に日蓮宗が数世紀にも亙って強い影響力を誇っている地
で、四半世紀もの長いあいだ、どなたであれ、お越しくださる方々とご一緒に、主の
食卓に与り、聖書を学び、讚美を捧げられること自体が、大きな感謝と喜びであると
感じています。  腎臓一つで、肝硬変が進行中のようですが、ベター・ハーフの順子
さんに助けられながら、日々を感謝で過ごせること自体が恩寵の奇蹟だと確信してい
ます。

  主の再臨が間もなくあるのか、それとも、私の魂のお召しの瞬間が迫って来ている
のか、そのどちらかだと思います。  たぶん後者でしょうけれど‥
  感謝の日々を過ごさせていただいていること自体を恩寵のなす業だと確信していま
すし、そのこと自体が、質問者の表現を借りるならば、「成功している」感謝の生活
だと言えるのではないのでしょうか。  一方的な十字架上で示された恩寵のおかげ、
常に忠実でいらっしゃる神さまの一方的なおかげであると確信しています。

★  主イェス・キリストに対する私たちの信仰生活においては、「成功する」という
ような表現が、もしも言えると仮定するのであれば、それは、統計上の数字のことで
はなく、信仰が私たちの心の中にもたらす豊かな質の世界のことであると思います。

  『御霊の(結ぶ)実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制で
あって、これらを否定する基準はない‥』とガラテヤ書5章22節以下は語ります。
  如何なものでしょうか?  皆さんはどのようにお考えになっておられますか?