★ 讚美歌 310番、バプテスト教会系新生讚美歌 430番、新聖歌 190番、聖歌 254番
及びインマヌエル讚美歌 141番などに有名な讚美歌 Sweet Hour of Prayer が紹介・
掲載されています。
上記の初めの3種類の讚美歌集はすべて讚美歌 310番の翻訳詩が共通して使われていますが、聖歌とインマヌエル讚美歌はそれぞれ異なった翻訳詩が使われています。
原詩と比較して見ますと、翻訳を担当された3名のかたがたの、それぞれのご苦労を垣間見ることができるように思います。
★ この有名な讚美歌に関してですが... 二つの興味ある特徴があるかと思います。
一つは作詞者について、そしてもう一つは作曲家に関してです。
しかし、作曲家ブラッドバリー William B. Bradburyに就いては、すでに先月16日に紹介しました讚美歌『主われを愛す』の作曲者と同じ人ですので、重複しての紹介を避けたいと考えます。 (2008年10月16日号ベタニヤつうしん2頁~6頁を参照)
★ 所有しています十数冊の讚美歌史の資料源を読んでみまして、「極めて美しい」讚美歌の作詞者ウイリアム・W.ウォルフォード William W. Walford 1772~1850に関する情報が極めて限られていることを知りました。 顔写真もありません。
「美しい」という意味は、私たちが呼吸をすることによって肉体的生命を保っているのと同じように、創造主・救い主に「祈ること」によって私たちの魂が生かされているのですから、この祈るということを、逆境のなかに生き抜いた盲人伝道者が彼の信仰告白として書き遺してくださったという意味で、「極めて美しい」讚美詩だと、そのように私は考えているからです。
ウイリアム・ウォルフォードが生まれたのは1772年(江戸中期の安永1年、飛騨で一揆があった前年)イングランド南部サマセッツシャ-の川沿いの町バスでした。
地図で調べてみましたら、英京ロンドンのほぼ西方約 160kmにあります。 工業港湾都市ブリストルに近い町ですから、バスも同じ川を利用した工商業都市ではなかったかと記憶しています。 しかし肝心のウォルフォードの生まれた月日は不明です。
実は、ウォルフォードがどのような両親のもとで、どのように生まれ、育てられたのかなど一切不明のようです。 むしろそれが「あたりまえ」であったような、貧困に喘ぐ貧しい無名の少女が生み捨てたみなしごであったのではないのか‥と憶測しているのが資料源の正直な共通認識のように私には受け取れました。
死亡したのは1850年(嘉永3年・徳川家慶・国定忠次処刑)6月22日です。
ロンドン西北西25kmに位置する旧ミドルセックス州の町で、現在ではロンドンの郊外都市となっているアクスブリッジで死亡しています。 埋葬地は不明のままです。
1845年9月13日付けの The New York Observerにはウォルフォードの紹介文が掲載されています。 投稿者トーマス・サモンThomas Salmon の紹介文を仮私訳してみますと以下のようになります。
『私がコールシェアに住んでいたとき、盲人説教者ウイリアム・ウォルフォードと知り合いになった。 彼の生い立ちや家族関係には不明瞭な点が多く、まともな教育も受けられなかったようである。
(野村注a: 実際はホーマトン・アカデミー Homerton Academy で学び、のちに同校でクラシックスを教えていますので、今で言う小中高校生向きの盲学校ではなかったのかと、そのように個人的に憶測します)
しかし彼は強靭な意志と抜群の記憶力の持ち主であった。 彼が説教をするとき、主題に添って正確にメッセージの内容を展開していたし、聖書の章や節を実に正確に記憶しており、誤った章や節を述べることはなく、とくに詩篇のすべてを実に正確に暗誦していた。 新約聖書も、豫言書も、歴史書の記憶も完全なものであった。
すなわち、彼は新旧聖書のすべてを、初めから終わりに到るまで、完全に暗記していたということで、驚くべきことである。
ウォルフォードは(注b: 小さな手回り品や安物の小さな宝石や指輪などの装身具を売る小さな店頭の)炉端に座って店番をしながら、いつも次の日曜日の朝夕二つの説教を準備していた。
ただ黙って店先の炉端に坐って、ひたすらに説教を黙想していたというのではなくて、その間にも彼は両手を忙しく動かし、動物の骨を切断したり、研磨したりして、靴べらを作ったり、家具や衣服用の小さな備品や装具を作っていたのだ。
そのような作業をこなしながら、その合間を縫って作詞もやっていた。
あるとき私が彼の小さな店を訪れたとき、それまでに作詩してあった詩の数点を暗誦して私に聞かせてくれた。私が彼を訪れるまでのあいだ、誰もウォルフードを訪ねて来て、彼が作詩した詩を紙切れに代筆してくれる者がいなかったようだった。
彼は私の前で同じ詩を二、三度暗誦したのち、『こいつはどうだい?』と私に尋ねた。 けっこう彼自身は満足して、悦に入っているような微笑みが彼の表情から読み取れたのだが、批判されるのではないかと案ずる表情も見え隠れしていた。
Sweet Hour of Prayer! Sweet hour of prayer,
That calls me from a world of care,
And bids me at my Father's throne
Make all my wants and wishes known;
In seasons of distress and grief
My soul has often found relief,
And oft escaped the tempter's snare,
By thy return, sweet hour of prayer.
彼がこの詩をいくどか繰り返してそらんじているうちに、私は大急ぎで私の鉛筆を走らせて記録した。 こうして入手したウォルフォードの詩を、私はニューヨークのオブザーヴァー誌に送り、記録として保存し、発表する価値がある詩なのかどうかの判断を仰いだというわけだ...』と記録されています。
★ ウォルフォードが生来の盲人であったのか、不幸な環境に輪をかけたような不遇のド真ん中の嬰児期に失明することになったのか‥そのことは私にはわかりません。
しかし、全盲という、一見「極めて不幸中の不幸としか思えない人生」に在って、神の恩寵を豊かに受けて、そのことを本人自身が深く個人的なこととして受け止めたが故に、この人類がこの地上に存在する限り、決して忘れ去られることのない不朽の名作「Sweet Hour of Prayer」を彼自身の信仰告白として遺すことができたのです。
神を礼拝するときの重要な要素に、神自身を讚美することがあります。
そしてまた、祈ること、すなわち神と交流することがあります。 この二つの分野に盲人ウォルフォードが大きな遺産を遺してくれたのです。 信仰の巨人の一人です。
盲人で讚美歌界に大きな影響を遺した女性に Fanny J. Crosbyもいます。
いわゆる「健常者」の私たちに対して、これらの聖徒たちは人生の「勝害者」です。
「勝害者」ウォルフォードは逆境にもめげず良く学び、コングリゲーショナル教会の牧師として按手され、サッフォークのストーマーケット教会に(1798年~1800年)仕え、ノーフォークのグレイト・ヤーマウス教会に(1800~1813)仕えています。
その後しばらくのあいだ教会に仕えることを休んでいたようですが、1824~1831年にはアクスブリッジ教会に仕え、さらに1833年~1848年に同教会に戻って来て奉仕しています。
1841年~1831年のあいだ、母校ホーマトン・アカデミーで教鞭をとっています。
いくつかの作品を遺していますが、主だったものは、1836年に発表した、仮私訳で、祈りの姿勢 Manner of Prayer があり、詩篇の翻訳(ウォルフォード版)、ラテン語で Curae Romanae、クリスチャン・エヴィデンス・カテキズム(仮私訳で信仰明証教本? 、そのほかに 1851 年に John Stoughton が編集した自叙伝があります。
讚美詩として現存しているのは「Sweet Hour of Prayer」です。
★ 作曲者に関しては10月16日に発表しておきました(ベタニャつうしん10月26日に掲載)を御覧ください。 50点ほどの讚美歌が現存しています。 日本ではいろいろな教派や群れと、その発行機関によって発行されている各種讚美歌集にその幾つかが掲載されています。 ウイリアム B.ブラッドバリー William B. Bradburyです。
★ 神の恩寵に対して誠実に、一途に、ひたすらに応えようと生きる魂は、いわゆる健常者であろうと、障害者であろうと、そのような肉体的なことに関係なく、多くの祝福の影響を周囲の人々に、そして後世に遺すことができるのです。
みなさんの後世への最大遺物とは、どのような信仰の実なのでしょうか?
エペソ書2章6節~10節の聖句をみなさんはどのように理解されておられますか?