『小さなこと』

★  『どうして茸ばかりを写すのか?』と長男が私に尋ねました。
『こんな寒村僻地では撮影したい人物はいないし、べっぴんさんもいないからさ』と
私は答えておきました。  雉の家族が庭に来て餌を啄ツイバ む季節も終わりました。
  フォックス亭にやって来る狐たちの撮影には飽きてしまいました。
鹿の群れが集まるには時期的に少し早過ぎます。  灰鷹や大鷹を撮影しようと願って
も高価な超望遠レンズを所有しているわけでもありません。  そうなれば、茸を廉価
な電子亀で接写するしか選択肢がないのです。  長男も納得したようです。

★  梅雨の合間を縫って原生林に入りますと、いろいろな色と形をした小さな茸たち
があちこちで群生しています。  群生している茸は白か枯葉色が多いです。
単独で生えている茸もあります。  紅色や、紅葉色、それに真っ赤なのもあります。
秋になれば、この時期に見られる茸とは違った色と形をした茸が生えてきます。

★  接写撮影のために最近特に捜している茸があります。  真っ赤で、鶏卵を立てた
形をしている小さな茸です。  卵茸タマゴダケ というのだそうです。  食べられる茸だ
と言う人もありますが食べる気にはなりません。  一寸法師よりも小さなサイズです。
  尤も、一寸法師を見たことはありませんが、一寸は約3センチですから、更に小さ
いサイズの茸です。  真っ赤です。地面に接する茎の部分は真っ白です。

  地面すれすれのサイズですので、廉価の電子亀さんでの撮影は困難です。
何枚か撮影して、その中から気にいったものを接写できれば満足です。そして、翌日
もういちど確かめに行きますと、卵型であったものが、見事に開いて、奇麗な茸型を
しています。  翌々日になれば倒れており、たいていは何かに食われています。  
花の命は短いので乙女は早く恋したほうがよい...とか言いますが、茸の命はもっと短
いように思います。

★  きのう玄関脇で見つけた茸は、枯れ葉一枚の上で育っている小さくて細い茸でし
た。  薄い枯れ葉一枚に身を託して、焦らず、慌てず、精一杯に、しかも与えられた
生命を悠然と、超然と生きている姿勢に、私は深い感動を覚えました。
  余りにも小さ過ぎて人の目に止まることのないような茸ですら、拡大して見てみま
すと、創造主の奇しき智恵と設計で満ち溢れており、美しく、完全な姿で、茸は堂々
と、精一杯に生きています。  小さいことは素晴らしいと教えられました。

★  さて、前置きがいつものように長くなりました。
ザカリヤ書4章10節を日本語訳と英語訳とで読み比べてみますと、違う印象を受けま
す。  英語訳をさらに仮私訳してみますと、『たとえ小さなことの初めであっても、
そのことの初めを蔑サゲス むべきではない。  なぜなら、主はそのことが始まったこと
自体を嘉ヨミされるからである...』と、まあ、このようになるかと思います。  小さな
ことはよいことなのです。  小さなことをも神は喜ばれるのです。

★  半世紀以上前に、赤貧留学生であった私は、朝4時に起きて、市電に飛び乗って
ロサンゼルスの中心街に向かい、太平洋相互生命保険本社の職員用食堂で働いていま
した。  8時になると、そこから5分ほど離れた別の建物、すなわち、バイオラ大学
の教室に飛び込み授業に参加し、11時までに三つの授業を受け、11時半から午後4時
まで再び食堂でバス・ボーイ(ウェーターや、テーブルから食器を下げ、テーブルを
整え、下げられた食器を洗うきつい仕事)をやっていました。  再び市電で5時半に
アパートに辿り着いた頃にはヘトヘトでした。  疲れ切って予習も復習もできません
でした。  生きること自体が、また、留学する意味すらを失いそうになるほどの辛い
日々が果てしなく続いていました。  ペパダイン大学院に入ってからも同じでした。

  この肉体的・経済的な苦悩に加えて、米国情報当局からの圧力、すなわち、日本に
帰国した後に、彼らの手先となるように仕向ける目的で、私を突然に「アカ」呼ばわ
りし、米政府転覆を企てる好ましくない外国人というレッテルを一方的に張られてし
まって、誰にも相談できず、独り途方に暮れるという精神的な苦痛があったのです。
工作の裏には、代々木八幡教会宣教師故Gが絡んでいたことも明らかになりました。

★  疲れ果てて、眠られず、太平洋を見渡す海岸に行き、日本の方に向かって一人で
大声を挙げて怒鳴ったことが幾度かありました。
  そのようなとき、自分の両手のひらを眺めたことがありました。
ペンを持ち、本を開くための両手が、大量の洗剤と水を使う皿洗いという厳しい肉体
労働でふやけてしまって、疲れ果てて役立たないほどになっているのを眺め、希望を
失いそうになっていました。  何のための両手なのか?...  アメリカに来て縊首する
ための両手?  そのような時に、何気なく出エジプト記4章2節を読んだのです。

★  『汝の手にある物は何か?』でした...  『エッ?  杖ですが‥  それが?』
厳しい荒野での羊飼生活に自分の生涯のほとんどすべてを使い果たし尽くしたように
思えたモーセに取って、命のない、乾き切った一本の杖は、自分の放浪人生の呪いの
しるし、希望のない、目的のわからない厳しい人生を生きてゆかなければならない、
老いてなお家族を養ってゆかなければならない自分の苦悩のシンボルである杖です。
モーセにしてみれば、あらためて眺めて見るのもいやな杖であったはずです。

  『それを地に投げよ!』  命じられるままに、無気力に、何気なく地に投げたその
杖が、モーセの想像を遥かに越えて、その瞬間に生きた毒蛇と変わったのでした。
そこからモーセの人生が変わり、イスラエルの将来が大きく変わりはじめたのです。

★  ヨシュア記2章1節~21節を読んでみますと、聖書がその名を記録していなけれ
ば永久に私ども人類が知るよしもなかったはずの、身分の卑しい女性ラハブが用いた
約束と救いの赤い紐のことを知ることを得ます。
  男たちに一方的に利用されることばかりの女と赤い紐がイスラエルの運命を変えた
ことを私たちは学びます。  ここでも神は小さな者、小さな紐を用いられたのです。

★  サムエル前書17章1節~58節には、日曜学校教材としてしばしば語られる物語、
すなわち、少年ダビデが巨人をパチンコと石ころ一つで打ち倒したことを記していま
す。  小さな男の子と、彼が用いた石ころ一個がイスラエルの運命を変えました。

★  士師記15章には、これ亦、映画にも用いられた、怪力サムソンが、驢馬の顎骨を
用いて群がる敵をやっつけたという、勇ましい物語が描かれています。

★  新約聖書に移りますと‥
ヨハネ傳12章1節~3節で、イェスが愛されたベタニヤ村で、マリヤが高価なナルド
の香油で満ちていた壺を割って、イェスの足に塗り、自分の髪の毛でそれを拭いたと
記録されています。  ベタニヤでの別の重要な話をルカ傳10章38節~42節が記録して
います。

★  最後に、使徒行伝9章36節~40節には、ドルカスという女性が貧しい人々のため
に衣服を作って与えていたことを学びます。  二千年前に縫製ミシンがあったわけで
はありません。  すべて手作業で、縫い針で、時間をかけて下着や上着を縫い上げて
人々に、とりわけ、家の教会に集まって来ていた人々に提供していたようです。

  以上のことは、すべて、小さな者が、小さな物を使って、神の御用に仕えたという
ことを表しています。  私たちも私たちに託されている物を、与えられている物を、
喜んで神さまの御用に捧げる喜びをさらに学んでゆきたいものです。  如何でしょう