やろう、やろう・・と思いながら、35年以上も経ってしまいました・・
如何にだらしないハラブジであるかということの証明です・・
敗戦記念日が近づいています・・
写真を撮影しました日に、茨城キリスト教大学生たちが、
鈴木政夫先生の指導のもと、ちょうどこの清涼里教会を
訪問されていた日でした。 当時学生であった安宅先生も含まれていました。
申ハルモニが大きな声で、『日本人前に出てこい! 謝れっつ!』と叫ばれました。
「おれたちゃ何もわるいことなんかしてないんだ・・」と、歴史を知らない日本の
大学生たち数名は戸惑っていました。 そのようなことがありました・・
***********************************************************************************************

1914年3月16日平安北道ピョンヤンプクド義州郡ウイジュウクン 月華面ウォルファミョンで出生 (注:現北朝鮮)
1933年平壌神学校ピョンヤン・シナッキョウに入学 時にお歳19歳
1934年20歳で開拓伝道 130余名の霊魂を主に導きました
1935年郭山教会クワクサン・キョウフェイ開拓 又 平和金崗洞教会ピョンファクムガワンドン・キョウフェイ 開拓
然しこの時より神社参拝を拒否した為に警察署に勾留されました
七個月後解かれて梅峰教会メボン・キョウフェイを開拓し建築資金を募集する為にかけまわり勞れはてて畑の中にすたれ草を以て餓を癒したと言います。
その時日本警察の弾圧が甚だしくやがては老会ノーフェイ (注:長老教会総会)が服し
て神社参拝をするようになるや勧士クォンサは同志と共に満州に逃れ撫順地方に着くも
逼害日に益し留まり得ず満州の吉林省に移り其処で伝道しました。
(注:勧士クォンサとは一種の敬称)
ところが日本警察はそこに迄手を延し勧士は検挙されて安東警察署アンドンキョンチョルソ
に十三箇月間未決囚として拘禁され裁判に於いて求刑十三年、宣告十年となりました。
その時の問答は左の如しであります。
問= お前は現日本国家に対して不平不満を抱く点は何であるか?
答= 神社参拝強要でございます。 神社とは皇室の祖先である天照大神を祭るので
ありますからこれは一種の偶像礼拝だと思います。 偶像を崇拝するのは教理
上許されません。 基督信者はキリストの子であって天照大神の子ではありま
せん。
問= お前の布教する活動は日本政府を亡ぼす企画かと認めるがどうか?
答= イェス・キリストの再臨に依って日本国家のみならず総ての国家は亡ぶでしょ
う。 日本の国家のみ依頼して居りつつその日本が亡ぶ時にはどうにもならな
いから永遠の生命を望む信者達は不安でたまられず日本国家丈頼る譯にはなり
ません。 又一歩進んで高い立場で考えると世の中に生きる人類の中成る丈
大多数の人に伝道して永遠の生命を得させなければなりません。 日本国内で
キリスト教徒が多くなると自然に国家制度を変更する事が出来、神社参拝強要
の如き悪法も無くなりキリスト教を根本原理とする国家になりましょうから
教役者たる私はこの信仰を拡張する布教伝道をしているのです。
問= お前の布教伝道は我が国の国体変更を目的とする推行手段と認めるが如何?
答= 直接武器を執って反抗したい意志はありません。 が多くの人達がキリスト
教徒になれば日本も現在の制度を保存する事は出来ませんでしょうから結果的
に見ては国家変更の手段とも言えませう。
問= 只今の心境は?
答= 変わりがありません。 吾等が待望しているキリストが一日も早くご再臨な
さって悪魔である不信者勢力を亡ぼして平和な神の国を建築されますよう、
心からお祈りします。
問= 被告は今も神社に参拝する事を否むか?
答= そうです。 将来も神社参拝はしない積もりです。
こう答えた彼女はすでに命を主に捧げる決心であった。 その後奉天監獄で2年
6箇月を送り延吉省間島刑務所に移されて1年間服役されて後、又安東省按山刑務所
に移送されて1945年8月15日開放される日迄服役されました、から年数から7年半、
であり、月数で八十八箇月、日数から二千八百日を暗い地下監獄で送りつつ涙にむせ
んで神様に祈りつつ信仰の説を守りましたからこの方の内なる人の姿は時が変わって
も何時までも恥ずかしくごさいません
この方は獄中での呻吟を吾等に伝えで呉れます。 獄中で獄守達にいぢめられる事
が非常に多くありました。 食糧を餘り少量しか給しませんので栄養失調となり、
体の弱い者は皆死んで了いました。 この方は発疹チフスと急性肺炎で瀕死の状態に
まで陥りましてひたすら主の懐に帰る日を望んで居りましたが獄中に現れた主の奇蹟
によって生命が蘇り8・15(注:日本ポツダム宣言を受諾した敗戦日)と言う神様の
審判に依って出獄されて今日迄三十年間福音戦線で良き働き手となり又義の英雄と
なって戦って居られるのであります。
出獄後四○日間休養し再び伝道に着手し鉄山教会チョルサン・キョウフェイ (注:現 D.M.Z.
南北軍事境界線地域)で働き、数箇所の集会を導きましたが日増しに加わる共産黨の
迫害を避けて1947年1月に38度線(注:日本降伏直後朝鮮動乱勃発前迄の米露による南北分断ライン)を越えて南韓に移り長老教会の数箇所で集会しました
1949年成ソン ??牧師の「韓国キリストの教会」と言ふ著書を呼んで深く感じ、1951年
動乱の為に釜山に避難し、そこで李興植牧師に会い聖書討論をし 又 日本から来た
ジョンケノン(注:Joe Cannonと思われる)と聖書と討論して全くキリストの教会に
還元し1953年11月に本清涼里教会に就き今日に至る迄信仰と眞理の戦ひを進めて
居られるのでございます。 勇ましきそのご一生は輝かしく神にご栄光を帰し奉りました。
ハレルヤ!
如何にだらしないハラブジであるかということの証明です・・
敗戦記念日が近づいています・・
写真を撮影しました日に、茨城キリスト教大学生たちが、
鈴木政夫先生の指導のもと、ちょうどこの清涼里教会を
訪問されていた日でした。 当時学生であった安宅先生も含まれていました。
申ハルモニが大きな声で、『日本人前に出てこい! 謝れっつ!』と叫ばれました。
「おれたちゃ何もわるいことなんかしてないんだ・・」と、歴史を知らない日本の
大学生たち数名は戸惑っていました。 そのようなことがありました・・
***********************************************************************************************
ソウル特別市東大門區清涼里チョンニャンニ 2洞203-53號居住
李興植イ・フンシク牧師が
申玉女シン・オクニョ 女史の回顧供述を1974年4月1日に筆記し
訪韓中の野村基之に託したもの
李興植伝道者の文章のまま。 注とルビは野村添加
野村基之撮影

1914年3月16日平安北道ピョンヤンプクド義州郡ウイジュウクン 月華面ウォルファミョンで出生 (注:現北朝鮮)
1933年平壌神学校ピョンヤン・シナッキョウに入学 時にお歳19歳
1934年20歳で開拓伝道 130余名の霊魂を主に導きました
1935年郭山教会クワクサン・キョウフェイ開拓 又 平和金崗洞教会ピョンファクムガワンドン・キョウフェイ 開拓
然しこの時より神社参拝を拒否した為に警察署に勾留されました
七個月後解かれて梅峰教会メボン・キョウフェイを開拓し建築資金を募集する為にかけまわり勞れはてて畑の中にすたれ草を以て餓を癒したと言います。
その時日本警察の弾圧が甚だしくやがては老会ノーフェイ (注:長老教会総会)が服し
て神社参拝をするようになるや勧士クォンサは同志と共に満州に逃れ撫順地方に着くも
逼害日に益し留まり得ず満州の吉林省に移り其処で伝道しました。
(注:勧士クォンサとは一種の敬称)
ところが日本警察はそこに迄手を延し勧士は検挙されて安東警察署アンドンキョンチョルソ
に十三箇月間未決囚として拘禁され裁判に於いて求刑十三年、宣告十年となりました。
その時の問答は左の如しであります。
問= お前は現日本国家に対して不平不満を抱く点は何であるか?
答= 神社参拝強要でございます。 神社とは皇室の祖先である天照大神を祭るので
ありますからこれは一種の偶像礼拝だと思います。 偶像を崇拝するのは教理
上許されません。 基督信者はキリストの子であって天照大神の子ではありま
せん。
問= お前の布教する活動は日本政府を亡ぼす企画かと認めるがどうか?
答= イェス・キリストの再臨に依って日本国家のみならず総ての国家は亡ぶでしょ
う。 日本の国家のみ依頼して居りつつその日本が亡ぶ時にはどうにもならな
いから永遠の生命を望む信者達は不安でたまられず日本国家丈頼る譯にはなり
ません。 又一歩進んで高い立場で考えると世の中に生きる人類の中成る丈
大多数の人に伝道して永遠の生命を得させなければなりません。 日本国内で
キリスト教徒が多くなると自然に国家制度を変更する事が出来、神社参拝強要
の如き悪法も無くなりキリスト教を根本原理とする国家になりましょうから
教役者たる私はこの信仰を拡張する布教伝道をしているのです。
問= お前の布教伝道は我が国の国体変更を目的とする推行手段と認めるが如何?
答= 直接武器を執って反抗したい意志はありません。 が多くの人達がキリスト
教徒になれば日本も現在の制度を保存する事は出来ませんでしょうから結果的
に見ては国家変更の手段とも言えませう。
問= 只今の心境は?
答= 変わりがありません。 吾等が待望しているキリストが一日も早くご再臨な
さって悪魔である不信者勢力を亡ぼして平和な神の国を建築されますよう、
心からお祈りします。
問= 被告は今も神社に参拝する事を否むか?
答= そうです。 将来も神社参拝はしない積もりです。
こう答えた彼女はすでに命を主に捧げる決心であった。 その後奉天監獄で2年
6箇月を送り延吉省間島刑務所に移されて1年間服役されて後、又安東省按山刑務所
に移送されて1945年8月15日開放される日迄服役されました、から年数から7年半、
であり、月数で八十八箇月、日数から二千八百日を暗い地下監獄で送りつつ涙にむせ
んで神様に祈りつつ信仰の説を守りましたからこの方の内なる人の姿は時が変わって
も何時までも恥ずかしくごさいません
この方は獄中での呻吟を吾等に伝えで呉れます。 獄中で獄守達にいぢめられる事
が非常に多くありました。 食糧を餘り少量しか給しませんので栄養失調となり、
体の弱い者は皆死んで了いました。 この方は発疹チフスと急性肺炎で瀕死の状態に
まで陥りましてひたすら主の懐に帰る日を望んで居りましたが獄中に現れた主の奇蹟
によって生命が蘇り8・15(注:日本ポツダム宣言を受諾した敗戦日)と言う神様の
審判に依って出獄されて今日迄三十年間福音戦線で良き働き手となり又義の英雄と
なって戦って居られるのであります。
出獄後四○日間休養し再び伝道に着手し鉄山教会チョルサン・キョウフェイ (注:現 D.M.Z.
南北軍事境界線地域)で働き、数箇所の集会を導きましたが日増しに加わる共産黨の
迫害を避けて1947年1月に38度線(注:日本降伏直後朝鮮動乱勃発前迄の米露による南北分断ライン)を越えて南韓に移り長老教会の数箇所で集会しました
1949年成ソン ??牧師の「韓国キリストの教会」と言ふ著書を呼んで深く感じ、1951年
動乱の為に釜山に避難し、そこで李興植牧師に会い聖書討論をし 又 日本から来た
ジョンケノン(注:Joe Cannonと思われる)と聖書と討論して全くキリストの教会に
還元し1953年11月に本清涼里教会に就き今日に至る迄信仰と眞理の戦ひを進めて
居られるのでございます。 勇ましきそのご一生は輝かしく神にご栄光を帰し奉りました。
ハレルヤ!