★ 敬愛する或る伝道者から電子書簡を頂き、最近の健康状態に関する報告を教えて
頂きました。 病そのものよりも、病がもたらす不安感と、いつ発作が再発するかも
知れないという不安感にお苦しみではないのかな‥というような印象を受けました。
お電話を差し上げた場合、お話なさると咳き込まれるだろうと推測しますと電話を
することを躊躇しましたが、幾度かの戸惑いののち、思いきってお電話を差し上げま
した。 お話できて良かったのですが、案の定、咳き込みが始まりましたので、すぐ
に通話をやめました。 私たちの弱さを知り給う主のお護りを祈るのみです。
仲間の伝道者たちも、私と同様の年齢に達しておられますので、からだのどこかに
ガタが来ているのです。 然し、「ガタ」には秘められた新しい恩寵があるはずです。
そのことから、以下のように、イェスが遭遇なさったことの一部を思ったのです。
★ マタイ傳4章2節で、イェスが荒野で悪魔の誘惑に挑戦されたとき、最初に極度
の飢え、人が肉体的に生きるということでの極限状態に直面されました。
マルコ傳4章38節を読みますと、イェスは睡魔に襲われ、渡し舟の上で寝込まれた
ことを学びます。 心身共に過労から来る極度の疲労であったものと推測します。
亦、マルコ傳6章6節は、イェスの故郷ナザレに於いて、人々の不信から、何もで
きないという、一種のフラストレーションを伴った状況に陥られたような記録があり
ます。 一生懸命にやったあとで燃え尽きたという教会の若い牧師などに心当たりが
あるかも知れません。 燃え尽きて回復できないというのは気の毒です。
次にヨハネ傳は、その2章15節で、柔和であるはずのイェスが、エルサエムの神殿
で、怒りの余りに暴力を振るわれたような行動を紹介しています。
さらに4節では、巡回治癒宣教活動中に、疲れと乾きを覚えられて、井戸端に腰を
下ろして休まれたことを記録しています。
そして11章35節は、「イェスが涙を流された Jesus wept.」と紹介しています。
この箇所は、英語聖書の中で、主語と動詞から成立している一番短い文です。
★ このほかにも、人間イェスの喜怒哀楽を語るいくつかの聖書箇所があります。
それらを今回は省略しますが、上記の箇所は、いったい何を表しているのでしょう?
もちろん、私に神さまの御心を理解できるわけはありません。
しかしイェスが体験された、これらの肉体的な疲労や睡眠不足、飢えや渇き、失意や
怒り、悲しみや絶望は、実は私たち人間が、わたくし個人が、常に体験していること
だからです。 いつも私が、みなさんが、さらされている状態なのです。
イェスが、これらをご自身のものとして経験された‥ということは、それらを聖書
が率直に語っているということは、イェスは私たちの喜怒哀楽を完全に理解すること
がおできになるお方である‥ということだと私は理解します。 安心して主イェスの
傍に近づいてもよい‥という証拠なのです。
★ マタイ傳10章29節は、二羽百円で売られているような雀でさえ、天の父の承諾が
なければ地に落ちることはない、あなたの髪の毛の一本に到るまで、すべて天の父が
ご存じであり、天の父の許しがなければ、脱毛することはない‥と、語っています。
讚美歌の一つに、「一羽の雀さえ主は顧みてくださっている‥」と歌っています。
ベタニヤ・ホーム周辺の原生林の中には、この時期、とても小さな茸が数多く自生
しています。 接写撮影したのち、自宅で拡大して眺めてみますと、ひとつひとつの
茸のすべてが美しい容姿をしています。 無駄のないすばらしいデザインと色彩で、
誰も顧みないような森の中の小さな茸のひとつ一つにさえ創造主の奇しき創造の業を
誇らしげに示しているのを学びます。 感動的です。
原生林の中を歌いながら飛翔する大鷹や灰鷹の雛鳥や、美しい色彩のからだと歌声
の持ち主の大瑠璃オオルリの姿を求めて、双眼鏡と共に、原生林の中に入る人を、たまに
見かけますが、食用に適さない小さな茸を顧みる人はほとんどいません。
★ しかし茸もまた、創造主の手によるものです。 人間が顧みなくても、創造主が
ご存知であり、人間の視線をまったく気にしないで、茸は自生しているのです。
私たちは、野の鳥や、山の茸より遥かに勝った者として生を与えられています。
私たちの弱さを個人的によく知りたまい、顧みてくださる神さまに感謝を捧げるもの
です。 安心してイェスのみもとに侍ハベってください。 大丈夫ですから‥
頂きました。 病そのものよりも、病がもたらす不安感と、いつ発作が再発するかも
知れないという不安感にお苦しみではないのかな‥というような印象を受けました。
お電話を差し上げた場合、お話なさると咳き込まれるだろうと推測しますと電話を
することを躊躇しましたが、幾度かの戸惑いののち、思いきってお電話を差し上げま
した。 お話できて良かったのですが、案の定、咳き込みが始まりましたので、すぐ
に通話をやめました。 私たちの弱さを知り給う主のお護りを祈るのみです。
仲間の伝道者たちも、私と同様の年齢に達しておられますので、からだのどこかに
ガタが来ているのです。 然し、「ガタ」には秘められた新しい恩寵があるはずです。
そのことから、以下のように、イェスが遭遇なさったことの一部を思ったのです。
★ マタイ傳4章2節で、イェスが荒野で悪魔の誘惑に挑戦されたとき、最初に極度
の飢え、人が肉体的に生きるということでの極限状態に直面されました。
マルコ傳4章38節を読みますと、イェスは睡魔に襲われ、渡し舟の上で寝込まれた
ことを学びます。 心身共に過労から来る極度の疲労であったものと推測します。
亦、マルコ傳6章6節は、イェスの故郷ナザレに於いて、人々の不信から、何もで
きないという、一種のフラストレーションを伴った状況に陥られたような記録があり
ます。 一生懸命にやったあとで燃え尽きたという教会の若い牧師などに心当たりが
あるかも知れません。 燃え尽きて回復できないというのは気の毒です。
次にヨハネ傳は、その2章15節で、柔和であるはずのイェスが、エルサエムの神殿
で、怒りの余りに暴力を振るわれたような行動を紹介しています。
さらに4節では、巡回治癒宣教活動中に、疲れと乾きを覚えられて、井戸端に腰を
下ろして休まれたことを記録しています。
そして11章35節は、「イェスが涙を流された Jesus wept.」と紹介しています。
この箇所は、英語聖書の中で、主語と動詞から成立している一番短い文です。
★ このほかにも、人間イェスの喜怒哀楽を語るいくつかの聖書箇所があります。
それらを今回は省略しますが、上記の箇所は、いったい何を表しているのでしょう?
もちろん、私に神さまの御心を理解できるわけはありません。
しかしイェスが体験された、これらの肉体的な疲労や睡眠不足、飢えや渇き、失意や
怒り、悲しみや絶望は、実は私たち人間が、わたくし個人が、常に体験していること
だからです。 いつも私が、みなさんが、さらされている状態なのです。
イェスが、これらをご自身のものとして経験された‥ということは、それらを聖書
が率直に語っているということは、イェスは私たちの喜怒哀楽を完全に理解すること
がおできになるお方である‥ということだと私は理解します。 安心して主イェスの
傍に近づいてもよい‥という証拠なのです。
★ マタイ傳10章29節は、二羽百円で売られているような雀でさえ、天の父の承諾が
なければ地に落ちることはない、あなたの髪の毛の一本に到るまで、すべて天の父が
ご存じであり、天の父の許しがなければ、脱毛することはない‥と、語っています。
讚美歌の一つに、「一羽の雀さえ主は顧みてくださっている‥」と歌っています。
ベタニヤ・ホーム周辺の原生林の中には、この時期、とても小さな茸が数多く自生
しています。 接写撮影したのち、自宅で拡大して眺めてみますと、ひとつひとつの
茸のすべてが美しい容姿をしています。 無駄のないすばらしいデザインと色彩で、
誰も顧みないような森の中の小さな茸のひとつ一つにさえ創造主の奇しき創造の業を
誇らしげに示しているのを学びます。 感動的です。
原生林の中を歌いながら飛翔する大鷹や灰鷹の雛鳥や、美しい色彩のからだと歌声
の持ち主の大瑠璃オオルリの姿を求めて、双眼鏡と共に、原生林の中に入る人を、たまに
見かけますが、食用に適さない小さな茸を顧みる人はほとんどいません。
★ しかし茸もまた、創造主の手によるものです。 人間が顧みなくても、創造主が
ご存知であり、人間の視線をまったく気にしないで、茸は自生しているのです。
私たちは、野の鳥や、山の茸より遥かに勝った者として生を与えられています。
私たちの弱さを個人的によく知りたまい、顧みてくださる神さまに感謝を捧げるもの
です。 安心してイェスのみもとに侍ハベってください。 大丈夫ですから‥