『狭き門』

★  フランスの作家でノーベル賞受賞者にアンドレ・ジード(ジッド) Andre Gide
という作家がいます。  評論家でもありました。
  母方の従姉を恋したことから生じた人間の問題、特に厳格で禁欲的なピューリタン
信仰の中で育ったジードが、道徳規範と生きることとの矛盾点に誠実に立ち向かった
自らの経験から書いた小説に「狭き門La Porte etroite」と題したものがあります。

★  小説「狭き門」がマタイ傳7章13節~14節とルカ傳13章22節~30節のイェスの警
告を記した箇所から選ばれたことは間違いのないことだと、私は考えています。

  「狭き門」と訳されている箇所は、dia tis stenis pulisと、マタイ傳では、英語
のゲイト gate を表す pulisが用いられています。  新約聖書全体を通してこの単語
プリス pulisは、どちらかといいますと、正確な日本語の適訳語がないので躊躇しま
すが、地獄への門とか地下世界への入口‥などを表すときに用いられています。

  ルカ傳では dia tis stenis thurasと、英語のドアーと訳されている単語が用いら
れています。  thuras  は、どちらかと言いますと、新約聖書のほかの箇所において
は、折があれば入ることができる開かれた場所、機会への入口‥というような意味が
強いように思えます。

★  マタイ傳7章13節は、『狭い門から入れ。  滅びに到る門は大きく、その道は
広い。  そして、そこから入って行く者が多い。  命に到る門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない』‥と記されています。

  マタイ傳7章に書かれてあるこのイェスの警告を、ほとんどの読者はよくご存知だ
と思います。  しかし、ルカ傳13章のほうに記録されているイェスの警告を注意して
読む人が少な過ぎるのではないかと、私はむしろ案じています。
しかしルカ傳13章の警告文のほうが遥かに含蓄に富む文章だと、私は考えています。

  『さてイェスは教えながら町町村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。
すると、或る人がイェスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。  
そこでイェスは人々に向かって言われた。  「狭い戸口から入るように努めなさい。  
事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだから。  家の主人が立って戸を閉じて
しまってから、あなたがたが外に立ち戸を叩き始めて、「ご主人様、どうぞ開けてく
ださい」といっても、主人はそれに答えて、「あなたがどこから来た人なのか、私は
知らない」というであろう』‥とあります。  ルカ傳13章22節~26節です。

★  イェスが、狭い戸口から入るように『努めなさい』と言われた原語は、アゴンと
いう単語です。  これは、ルカ傳22章44節で、イェスがゲッセマネの園で、血の
ような汗を大量に流し、苦しみ悶えながら切実に祈られたときの状況を描写している
場面を表す表現の中に出てくる単語です。  アゴニアと出ています。

  英語のアゴニー agonyと同じ語源です。  つまり、激痛、断末魔、臨終の苦しみ、
最後のもがき、極度の苦しみ、死闘‥などを表す単語です。

  「死ぬほどの決意をして」狭い戸口から入りなさい‥と、イェスは勧めておられる
のです。  これは、日曜日の朝の1時間か2時間だけ、教会堂という箱物の中に入っ
て宗教儀式に参加すれば、それでよし‥というようなものではないはずです。  日常
の生活の場で、私たちは、このような覚悟で、意識で、どのようにしたら主に喜んで
いただけるのか?‥という姿勢を私たちが保っているのか‥そういうことが問われて
いるのだと、私は理解するのです。  中途半端で玉虫色の姿勢は通用しないのです。

★  次に、『狭い』戸口という単語に注意したいと思います。
原語ではステノス stenos という短い単語で、新約聖書では2ヶ所に出てくるだけで
す。  すなわち、マタイ傳7章13節と、ルカ傳13章24節だけです。  イェスが狭い門
について語られた箇所に出てくるだけです。  それだけなら別に深い意味はないもの
と思えます。  無視か軽視してもよい形容詞だろうかと思います。

  ところが、ステノスと語源を同じくする言葉を新約聖書の中から見てみますと‥
「入ったり通行するのに難儀を覚えさせる、制限する、閉じ込める、束縛するような
狭い場所や、大勢の人で混み合った場所や通路、拘束、束縛、狭苦しさ、窮屈‥など
を表すことば」であると教えられます。
  ロマ書2章9節、8章35節、コリント後書4章8節、同6章12節、同12章10節に
それぞれ違った日本語訳がつけられて登場している言葉です。

★  このように、「狭い」戸口から入るように「努めなさい」という、ルカ傳13章
でのイェスの忠告と警告、なるほど従姉との許されない恋に悩んだジード(ジッド)
が個人的な苦悩の体験から書いた自分の小説に、「狭き門」と名付けた理由がわかる
ような気がするのです。

  刻々と静かに迫って来ている、そして実に各自に平等にすべての人にやって来つつ
あるお召しの日を前に、主イェス御自身が忠告なさり、警告なさったように、私たち
は、果たして私たち自身の「狭き門」を見いだしたというのでしょうか?

  そして、ようやく見いだした私たち自身のそれぞれの「狭き門=搾られる門」を、
多くの厳しい試練を、恩寵によってひとつひとつ乗り越えながら、入ろうと努力して
いるのでしょうか?
  「搾られる門=狭き門」のかなたに、イェスがいらっしゃる、輝ける栄光の天の国
を、私たちは確かに垣間見ているといえるのでしょうか?

  常に赦しと支えと導きの恩寵が私たちには必要なようです。  如何でしょうか?