★ ずっと前に、挿絵付きで、「軛クビキ 」について書いたことがありますが‥
旧新約聖書を通し、軛クビキ という言葉は、創世記27章40節からテモテ前書6章1節
までに、20ヶ所ほど登場しています。
日本の農村が、太平洋戦争敗戦以降、徐々に機械化されて、牛馬を使役する必要が
なくなって久しくなりました。 それに従って「軛クビキ 」という言葉も現物も、日本
から姿を消してしまいました。 「剄木」とか「衡」という漢字も当てていました。
牛車ギッシャや馬車などの前に長く平行に出した2本の棒、すなわち、長枝(轅ナガエ )
の先端を、牛馬の後頸に軛クビキ という横棒をかけたものに結びつけ、牛馬を引かせた
のでした。 その横棒のことを軛クビキ 言いました。 本来は、「首にかける横木」と
いうことであったかと思いますが、それに難しい漢字をあてたものと思います。
★ 軛クビキ に関する旧約聖書の箇所を読んでみますと、軛クビキ は、必ずしも動物だけ
に課せられたものではなく、ときには人間に、例えば戦争捕虜や、奴隷とか半奴隷の
ような身分の低い人たちを苦役に就かせるためにも用いられたようです。
その場合には木製ではなく、鉄で作った軛クビキ であったため、重いだけではなく、
皮膚が磨り減って、想像を絶する痛みを伴ったものと推測します。
以下は旧約聖書に登場する軛クビキ です。
*は人間に課せられていた軛クビキ を示唆しています。
創世記27章40節、*レビ記26章13節、民数記19章2節、*申命記28章48節、
サムエル前書11章7節、*列王紀前書12章4節、同19章19節、
*イザヤ書9章4節、*同58章6節、*エレミヤ書2章20節、*同27章11節、
*同書28章13節、*エレミヤ哀歌3章27節
以下は新約聖書に出てくる軛クビキ です。
*マタイ傳11章28節~30節、*ガラテヤ書5章1節、*エペソ書4章3節、
テモテ前書6章1節。
新約聖書に登場する軛クビキ はすべて人に課せられたものであることに注目する必要
があります。 2千年前のイェスの時代の社会制度を垣間見ることができます。
エペソ書4章3節だけは、日本語の場合、「きずな」と訳されています。
しかし「絆キズナ ・紲キズナ 」という漢字は、馬や犬や鷹などの動物を繋ぎ止める綱ツナを
意味していたものです。 そこから転じて「絶つに忍びない恩愛」を表す意味として
用いられ、「夫婦の絆」として平家物語10巻に登場しています。
★ さて、イェスがマタイ傳11章29節で引用された「軛クビキ 」は当時の農耕社会の
慣習が強く滲み出ています。
すなわち、軛をかけられた経験のない雄牛を軛に馴らし、手懐けるために、農民は
軛に馴れたほかの雄牛と並べ、両方の牛に木製の軛を課したのです。
この場合、軛に馴れている雄牛のほうを軛により強く結びつけ、馴れていない牛は
軛に軽く結びつけるという手段をとっていたのです。 そうすることで、軛に馴れた
牛に主な力を課し、馴れていない牛には荷重が余りかからないようにしたのです。
このようにして、新参者の牛は、先輩の牛の横に並んで歩きながら、少しずつ軛に
馴れて行き、次第に重荷を引っ張ることができる牛にと飼い馴らしたようです。
★ それと同じように、マタイ傳11章29節でイェスがおっしゃりたかったこととは、
『私がお前の横で、お前の重荷をお前と一緒に引っ張って歩いてあげるから、お前は
心配しないで、お前の重荷をできるだけ背負って歩んで行きなさい。 私がお前の分
のほとんどを引っ張って行くんだから、大丈夫だよ‥』ということだと思います。
『それじゃイェスが私の何を背負ってくださるって言うんだ?』という質問がある
かと思います。
イェスは、私たちの罪とその重荷を背負って、独りで苦しみ喘ぎながら、十字架の
丘へと歩んで行ってくださったのです。 罪人という恥を私たちに代わって背負って
くださったのです。 罪とその代価である死という不安と恐怖を背負って十字架へと
歩んでくださったのです。 悪魔が支配するこの世の中に在って、私たちの人生行路
に於いて私たちが行く先を見失って彷徨していたときに、私たちの戸惑いと困惑とを
一手に引き受けてくださったのです。
耐え切れないほどの私たちの人生の日々の重荷と混乱を、イェスは黙々と背負って
私たちの横を歩いてくださっているのです。 私たち自身の人生の重荷を、私たちが
重たくて耐えられない‥とぼやいている瞬間にも、私たちの横を一緒に軛に繋がれて
歩いてくださっているのです。
私たちが、重くて耐えられないと叫んでいる、その重荷の重たいほうを、イェスが
ご自身の肩で受け止めて、私たちと一緒に歩いてくださっているのです。
みなさんは、その事実を日常生活でお感じになっていらっしゃいましょうか?
★ 軛との関係で、聖歌 472番に「人生の海の嵐に」という讚美詩があります。
我が国でもっと歌われてよいと思う讚美歌がひとつあります。
半世紀以上も前にロサンゼルスのバイオラで学んでいたとき、ウェールズ地方の炭坑
労働者たち数百人がア・カペラで歌っていたのを聞いて感動を覚えた曲でした。
インマヌエル讚美歌 269番と,勝利の歌II-101番に紹介されています。
「心は悲しく= Days are filled with sorrow and care」です。
主イェスが、私たち自身という私たちの最大の重荷を、代わって担ってくださって
いるのです。 イェスの軛に学ぶこと、イェスの軛から学ぶことは不可欠なのです。
旧新約聖書を通し、軛クビキ という言葉は、創世記27章40節からテモテ前書6章1節
までに、20ヶ所ほど登場しています。
日本の農村が、太平洋戦争敗戦以降、徐々に機械化されて、牛馬を使役する必要が
なくなって久しくなりました。 それに従って「軛クビキ 」という言葉も現物も、日本
から姿を消してしまいました。 「剄木」とか「衡」という漢字も当てていました。
牛車ギッシャや馬車などの前に長く平行に出した2本の棒、すなわち、長枝(轅ナガエ )
の先端を、牛馬の後頸に軛クビキ という横棒をかけたものに結びつけ、牛馬を引かせた
のでした。 その横棒のことを軛クビキ 言いました。 本来は、「首にかける横木」と
いうことであったかと思いますが、それに難しい漢字をあてたものと思います。
★ 軛クビキ に関する旧約聖書の箇所を読んでみますと、軛クビキ は、必ずしも動物だけ
に課せられたものではなく、ときには人間に、例えば戦争捕虜や、奴隷とか半奴隷の
ような身分の低い人たちを苦役に就かせるためにも用いられたようです。
その場合には木製ではなく、鉄で作った軛クビキ であったため、重いだけではなく、
皮膚が磨り減って、想像を絶する痛みを伴ったものと推測します。
以下は旧約聖書に登場する軛クビキ です。
*は人間に課せられていた軛クビキ を示唆しています。
創世記27章40節、*レビ記26章13節、民数記19章2節、*申命記28章48節、
サムエル前書11章7節、*列王紀前書12章4節、同19章19節、
*イザヤ書9章4節、*同58章6節、*エレミヤ書2章20節、*同27章11節、
*同書28章13節、*エレミヤ哀歌3章27節
以下は新約聖書に出てくる軛クビキ です。
*マタイ傳11章28節~30節、*ガラテヤ書5章1節、*エペソ書4章3節、
テモテ前書6章1節。
新約聖書に登場する軛クビキ はすべて人に課せられたものであることに注目する必要
があります。 2千年前のイェスの時代の社会制度を垣間見ることができます。
エペソ書4章3節だけは、日本語の場合、「きずな」と訳されています。
しかし「絆キズナ ・紲キズナ 」という漢字は、馬や犬や鷹などの動物を繋ぎ止める綱ツナを
意味していたものです。 そこから転じて「絶つに忍びない恩愛」を表す意味として
用いられ、「夫婦の絆」として平家物語10巻に登場しています。
★ さて、イェスがマタイ傳11章29節で引用された「軛クビキ 」は当時の農耕社会の
慣習が強く滲み出ています。
すなわち、軛をかけられた経験のない雄牛を軛に馴らし、手懐けるために、農民は
軛に馴れたほかの雄牛と並べ、両方の牛に木製の軛を課したのです。
この場合、軛に馴れている雄牛のほうを軛により強く結びつけ、馴れていない牛は
軛に軽く結びつけるという手段をとっていたのです。 そうすることで、軛に馴れた
牛に主な力を課し、馴れていない牛には荷重が余りかからないようにしたのです。
このようにして、新参者の牛は、先輩の牛の横に並んで歩きながら、少しずつ軛に
馴れて行き、次第に重荷を引っ張ることができる牛にと飼い馴らしたようです。
★ それと同じように、マタイ傳11章29節でイェスがおっしゃりたかったこととは、
『私がお前の横で、お前の重荷をお前と一緒に引っ張って歩いてあげるから、お前は
心配しないで、お前の重荷をできるだけ背負って歩んで行きなさい。 私がお前の分
のほとんどを引っ張って行くんだから、大丈夫だよ‥』ということだと思います。
『それじゃイェスが私の何を背負ってくださるって言うんだ?』という質問がある
かと思います。
イェスは、私たちの罪とその重荷を背負って、独りで苦しみ喘ぎながら、十字架の
丘へと歩んで行ってくださったのです。 罪人という恥を私たちに代わって背負って
くださったのです。 罪とその代価である死という不安と恐怖を背負って十字架へと
歩んでくださったのです。 悪魔が支配するこの世の中に在って、私たちの人生行路
に於いて私たちが行く先を見失って彷徨していたときに、私たちの戸惑いと困惑とを
一手に引き受けてくださったのです。
耐え切れないほどの私たちの人生の日々の重荷と混乱を、イェスは黙々と背負って
私たちの横を歩いてくださっているのです。 私たち自身の人生の重荷を、私たちが
重たくて耐えられない‥とぼやいている瞬間にも、私たちの横を一緒に軛に繋がれて
歩いてくださっているのです。
私たちが、重くて耐えられないと叫んでいる、その重荷の重たいほうを、イェスが
ご自身の肩で受け止めて、私たちと一緒に歩いてくださっているのです。
みなさんは、その事実を日常生活でお感じになっていらっしゃいましょうか?
★ 軛との関係で、聖歌 472番に「人生の海の嵐に」という讚美詩があります。
我が国でもっと歌われてよいと思う讚美歌がひとつあります。
半世紀以上も前にロサンゼルスのバイオラで学んでいたとき、ウェールズ地方の炭坑
労働者たち数百人がア・カペラで歌っていたのを聞いて感動を覚えた曲でした。
インマヌエル讚美歌 269番と,勝利の歌II-101番に紹介されています。
「心は悲しく= Days are filled with sorrow and care」です。
主イェスが、私たち自身という私たちの最大の重荷を、代わって担ってくださって
いるのです。 イェスの軛に学ぶこと、イェスの軛から学ぶことは不可欠なのです。