『主イェスの胃痛』

<希臘ギリシャ語→英語 splanchnic = 内臓>

★  いつものように「余言者」の回顧と、マタイ傳14章14節に出てきます主イェスの
「胃痛」について考えてみたいと願っています。  お付き合いを願います。

★  1931年にこの世に生を受けた私は、1936年夏、5歳の時に父を喉頭結核で失い、
その年の夏から太平洋戦争敗戦直後の1946年春まで、京都の親族や母の恩師の家など
2軒で世話を受けていましたが、初めて東京に移り、母親と一緒に住むことになりま
した。  敗戦直後には、地方から東京に人口が移動することに対して、厳しい制限が
課せられていました。  旧制明治学院高等学校転校ということで許可を得ました。

  しかし、意識してから初めての母親との生活は、期待にはずれて、母側の不自然な
要因で、不安定なものとなってゆきました。  旧制明治学院高等学校に転入したとき
には良い成績を取っていましたが、卒業時にはほとんど大学入学に適する実力を喪失
していました。  大学入試と入学に対する自信を完全に喪失していました。

  難しそうな大学入試を受けなくても入学できそうな学校はないものか‥と、不安な
心で独り悩んでいました。  日本敗北まで軍需産業の一翼を担っていた獣医大学は、
人間自身が食べるその日の食料すら入手困難であった時代でもあり、軍馬と軍用犬の
必要がなくなり、獣医学校は存亡の危機に直面していました。  応募生は皆無に近い
状態でした。  疲弊し切っていた農村を畜産で興そうとする学生数名だけでした。

  動物が好きであったという理由で、同じ世田谷区内三軒茶屋にあった東京獣医大学
(現日本大学獣医学部)に願書を提出し、まるで赤絨毯を敷いたような歓迎ぶりで、
ほとんど無試験で無事入学を果たし、親族からの圧力からも解放されました。

  しかし実際には薬品も教材もなく、実験動物すら存在せず、教師が二人、事務員が
三人ほどしかいませんでした。  新入生は三、四名ほどでした。  一人は済州島から
の留学生の金五南 Kim,Onam 君でした。  こん日と違って、人間の食べ物すら深刻な
不足状態でしたから、家畜が存在するのも困難な時代でした。  社会的問題化した
ヤマギシ会が鶏を扱い始めたのは、そのような困窮状態に日本があったときでした。
軍需目的を喪失した日本の獣医学校の授業は、ほとんど内容のないものでした。

  それでも一応は解剖学というものがありました。  解剖する動物などいません。
教授は私たちに麻で織った粗布でドンゴロスと呼ばれていた袋を手渡し、都内に野犬
を見つけたら、カッパラッテ来いと命じました。  学友と自転車で蒲田方面に行き、

  それらしい犬をようやく見つけ、棒でぶち、袋に入れて学校に戻りました。
麻酔薬の欠如ということもあって、袋の中の犬を外から叩いて半殺しにし、活体解剖
のような恐ろしいことがあったかと記憶しています。  気絶し、獣医大学への食欲を
喪失してしまいました。  そののち宣教師Sの奨めでケンタッキーに留学することに
なりました。  恐ろしい解剖の授業を経験したので、今に到っても、テレヴィジョン
で解剖や血を流す場面を見ますと、身の毛がよだちます。

★  ところで、解剖のことをアナトミー anatomyと言います。
これは羅甸ラテン 語系の希臘ギリシャ語、「ana-完全に」+「temnein 切る」から派生した
合成語です。  事態の詳細な調査‥といいう意味も含蓄しています。

  それと似た言葉にスプランクナトミー splanchnotomy  という、むつかしい単語が
あります。  内臓切開という解剖学の名詞です。   splanchnic スプランクニック、
「内臓の‥」という意味です。  むしろ、「胃」に関係がある単語でしょうか‥

★  マタイ傳14章14節を日本語訳で読みますと、『イェスは船から上がって、大勢の
群衆を御覧になり、彼らを深く憐れんで、その内の病人たちをお癒しになった‥』と
書かれています。  この「深く憐れんで」がこのたび学びたい箇所です。

  同じ箇所を基督教文書伝道会の新契約聖書(永井直治訳)は『不憫に思い給い』と
訳しています。  いのちのことば社の詳訳聖書は『憐憫の情(あわれみと深い同情)
を覚えられ』と訳しています。  キリスト新聞社訳は『彼らを憐み』とあります。
新教出版社の新約聖書(柳生直行訳)は『深くあわれんで』と訳しています。

  その箇所を原文、すなわちギリシャ語で見てみますと  esplagchnisthe  とありま
す。  詳しく調べて見ますと「内臓とかはらわた」という意味に到ります。
  そこから「憐れみや同情を伴った、心を激しく動かされる状態」を表す意味が派生
しているのです。

★  つまり、「激しい胃の痛み」を伴うような同情・憐れみの心‥をイェスが群衆に
対して抱いていたということをマタイは伝えたかったのです。

  それが、脚が不自由でびっこをひいていた肢体不自由者に対するイェスの心であっ
たのです。  不治の病で社会から蔑視され差別されて、経済的に苦しんでいた、辛い、
悲しい人生の重荷を独り背負っていたおびただしい群衆に対するイェスの心であった
のです。  重い皮膚病に冒され、社会的に差別されていた人々に対するイェスの心で
あったのです。  日々を生きることに疲れ果てていた多くの女性たちに対するイェス
の心の痛みであったのです。  取税人ザアカイのように、差別され、蔑視され、無視
されていた人々に対するイェスの心であったのです。

  ただ単に「深く憐れんで」というマタイ傳14章14節の表面上の言葉だけでは決して
読み取ることができない、主イェスの深い、痛みを伴うみ心であったのです。

  先週も、わたくしの周囲だけでも、罪が人間にもたらした多くの痛みや悲しみを、
痛感させられました。  そして人間の無力さを思い知らされました。

  神さまによってありのままの姿で赦され、受け入れられ、愛されなければ、私たち
は一刻たりともこの恐ろしい、愛のない砂漠のような人生行路を、ひとりでは決して
生きて行くことはできないものだ‥と、強く、深く教えられた次第です。

  人は、みんな、そのような心の傷を負いながら、寂しく生きているようです。
救いは十字架の上で示された無条件の赦しと、愛の励ましにあると、改めて覚えさせ
られたのです。  みなさんはどのようにお考えでしょうか?  イェスの「胃痛を伴う
ほどの憐れみと愛」を、必要となさってはいませんか?  十字架に答があります。

 


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