黙示録21章1節~4節から
★ もう十数年も前のことになりますが...
ベタニヤ・ホームの集会に一時期ですが出席されていたM子さんという若いお母さんがありました。
わが国が太平洋戦争に破れ、それまで日本の植民地として日本が支配していた朝鮮半島南部から日本に引き上げる機会を何らかの理由で逸した或る家族がありました。
M子さんはその家族の一員でした。 遅れて帰国したM子さんに一目ぼれしたのがHさんで、結婚を申し込み、ベタニヤ・ホームの近くにあるHさんの家に嫁いで来たのです。健康な長女が生まれ、そのあとで長男にも恵まれました。
ところが待望の長男は、生後間もなく病をえて、松本市にある幼児専門病院に入院しました。私ども夫婦も赤ちゃんを病棟に見舞いました。 祈りました。
しかし嬰児の魂は天使によって御国に移されて行きました。つらい時間でした。
嬰児のお墓は、ベタニヤ・ホームからそんなに遠くない所にあります。
★ 当然のことでしたが、若いM子ママは私にいくつかの自然な質問をされました。
それは天に召された嬰児の魂の行方のこと、天国の状態のことなどでした。
そこで私は、主イェスの十字架の恩寵を説明し、聖書が約束している復活の希望を説明しました。 M子ママやパパがやがて天国に行ったとき、幼くして先に召された長男は天国で立派に成長してママとパパの到着を喜んで迎えてくれるはずですよ...と説明したのでした。 若い両親に対してそのように述べた答は、その場を何とかしのごうと、私が口からでまかせに、適当に述べたものでは決してないのです。
私たち夫婦には、神さまが二人の子供を託してくださいました。 恩惠と眞理です。
このことは皆さまがご存知なことです。 しかし実は私たちにはもうひとりの子供が託されようとしていました。 早産で天国に移って行きました。 そのことを、私は忘れたことがありません。 きっと天国で会えるであろうと確信しているのです。
もちろん、私は、或る意味では現在のこの地球という宇宙船の上で、天国と地獄の「先物取引のような前兆、前触れ」を体験しておりますが、実際に天国にも地獄にもまだ行ったことがありません。それですから私が言える確かなこととは、聖書から学んで、このようなことではないのか‥ということです。
信仰とは、まだ見ていないことを、確かなことであると確信することである‥と、ヘブル書11章1節は語っています。
マタイ傳18章1節~6節を読んでみますと、幼子が天国に入れることは確かです。
この場合、幼児とは何歳から何歳までのことだ?などの疑問を挿入することは不適切だと思います。 聖書は信仰の本、意味の本であり、科学の本ではないからです。
幼い嬰児や幼児が、何らかの理由で天父の許に召された場合、彼らがただちに天国に移って行けることはイェスご自身が保証されていますので、これは大丈夫です。
疑う余地のないことです。
今朝ここにお集まりの方々にお尋ねしたいことがあります。話し合ってみたい点があります。そうすることで皆さんが聖書をさらに考えながら読んでくださるようになるかと思うのです。
それは、嬰児・幼児・子供が天国に入れることに関しては、皆さんがたがイェスのお言葉や聖書の教えに抵抗するということではなく、むしろ単純で素直に、そのまま信じて同意なさるということですが‥、それでは天国にお引っ越しをした子供は天国でも同じ年頃の子供でいるのだろうか、どうなのだろうか?‥ということです。
腰が曲がって杖を突いたお爺さんやお婆さんが、車椅子に乗った不自由な人々が、天国でも腰が曲がったきりなのでしょうか? 車椅子に乗って不自由な姿をしているのでしょうか‥ということとも関係して来ます。
また、お爺さんやお婆さんは天国に移ったあとも、お年寄りのままでしょうか?‥
ということとも関係して来ます。
別の言い方をすれば、天国に子供や老人がいるのでしょうか?‥ということです。
★ 黙示録21章1節以下をどのように読めばよいのでしょうか?
王座の前に、嬰児や幼児や子供たちの姿を見ることができますか?
『神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神みずから人と共にいまして、人の目から涙を全く拭いとって下さる。 もはや死もなく、悲しみもなく、叫びもなく、痛みもない。 先の(地上での)ものがすでに過ぎ去ったからである...』と黙示録21章1節~4節は語っています。
信仰の目で私たちはこのことを確信し、信仰の目で眺めることができるのです。
この箇所で「人」と捉えられているのは、すべて健康な成人という意味としか私には理解できないのです。
誰か他人の手を借りなければ生きられない嬰児や幼児をここでは見ることができないのです。みんな「人」、すなわち健康な成人ばかりです。
腰が曲がったままで、杖を突いて、車椅子に乗って、誰かに後押しをしてもらっている病弱者の姿は見当たらないのです。
嬰児や幼児は立派に成長した「おとな」になって、主の王座の回りで主を讚美しているようにしか私には受け取れないのです。
腰の痛い弱々しい老人や病人ではなく、健康な、働き盛りの「成人」が神の王座の回りで救い主を讚美しているのです。 幼児は成長した「人」に、老人・病人は健康な「成人」となって、主の周辺で主を讚美し続けている姿を私は信仰の目をとおしてみるのです。
★ コリント前書15章を読みますと、私たちの魂がこの地球を離れて御国に移るときには、朽ち果て易いこの地上の衣を拭い捨てて、霊的な、何かしら天的な、朽ち果てることのない、新しい衣を頂だいして身にまとうことを学ぶことができます。
そして、個々に朽ち果てることのない、主の栄光を反射することができる天的な衣服をまとった聖徒たちが、創造主であり、宇宙天体のすべてを永遠から永遠に到るまで支配し給う神を讚美し続けることを、聖書の教えを通し、信仰の目を通して、学び、かつ見ることが出来るのです。その日のために、恩寵の助けを得て、日々の生活のなかに在って、備えを怠らないように致したいものです。楽しいのが御国です!