『ミニストリーということば』


★  ひとつの考えを述べるときには、「言葉という表現方法」を用いることが多いのですが、そのような考えを表す適切な言葉、単語がない場合、とても苦労します。

  いわゆる文明開化が叫ばれ始めたころ、それまでこの国に存在しなかったある特定の思想や物事を、とりわけ欧米から初めて導入されようとしていた宗教や思想を漢字または片仮名を使ってどのように日本語で説明し、どのように表記すればよいのか‥大きな問題であっただろうと思います。

  今ではすっかり定着してしまって、違和感を覚えなくなってしまいましたが、一例をあげれば、「教会」とか、「聖書」とか、「キリスト教」とか、「牧師」、さらに「神父」とか、「献金」、「洗礼」、「牧会」などが、日本語としてキリスト教界にすっかり普及してしまっています。  しかし、改めて考えてみますと、これらの単語は、反・非聖書的なものでしょう。  明治時代に翻訳をあやまったからでしょう。

  明治時代にこれらを翻訳するに際し、儒教思想を含蓄していた漢字を用いたということに一因があったのではないかと思います。  これほどまでにこれらが普及してしまっているこん日においては、もはや改善を期待することは不可能でしょう。

  「洗礼を授ける」とか「洗礼を受ける」というような言葉は、「教会」という悪訳と同じほど有害で、聖書的ではない言葉です。  上下関係を表す非・反聖書的発想がそのまま日本や韓国に導入されてしまったからでしょう。  翻訳の恐ろしさです。

  「バプテスマ」とか、「アーメン」や「ハレルヤ」という言葉も、邦語訳するのが困難なものです。  周知のようですが、ほとんどの人はそれが含蓄する意味を知ってはいないのです。  アーメン・ソーメンと揶揄されたり、降雨だのにハレルヤ‥だとかです。  せいぜいでもヘンデルのメサイヤの一部だろう‥という具合です。

  その反対に、「アーメン」や「ハレルヤ」が一部の教会人の間で安易に使われ過ぎていると思います。  これをクリスチャンでない人たちが耳にするとき、何を意味する言葉かわからないようです。

  聞き慣れない奇妙な言葉を、あたかも自分だけは宗教的献身者である‥かのように外者ソトモノに見せかけているような、独り善がりさを部外の人たちに感じさせますが、当のご本人だけが気づかないでいる場合が多いようです。  困ったことです。

★  さて、これらの弊害はこのあたりにしまして‥
これらと同じように、邦語訳するのが困難な言葉に、「神と人に仕える」という意味の「サーヴィス service」や「ミニストリーministry」という言葉があります。これらも翻訳するのにとても困難を伴う外来単語です。

  先の太平洋戦争に日本が突入する直前から政府主導で使われ始めた言葉に、たとえば「滅私奉公」などという標語・スローガンがありました。  この場合の「奉公」はおそらく serviceという意味を表しているかと思います。  天皇とその国家に対して「仕える」という意味であったのでしょう。  しかし日本の敗戦と共に消滅してしまいました。  そのような、強制された思想は、こん日のこの国には存在しません。
  今はその反対に、自己中心主義 me-ism が跳梁チョウリョウ跋扈バッコ しています。
「滅私奉公」は、所詮ショセン根のない浮き草にしか過ぎませんでした。

  しかし、私の幼少時代、すなわち、日本が太平洋戦争に突入するまでは、それでも「奉公に出る」、「奉公人」、「丁稚奉公 デッチボウコウ」などという言葉が京都西陣では使われていました。
  劣悪な環境のなかで、最低限の寝食付きで、朝日と共に起き、夜まで働いていました。  給料に基準はなく、休みは15日と「つもごり」=晦ツゴモリ=月末の二回でした。
  休みが月に一回というのもあったように記憶しています。  藪入りヤブイリ・家父入りなどと呼ばれており、奉公人たちが嬉しそうにその日を切望していたことを覚えています。  そのように、商人の家に年季奉公をする年少労働者のことを丁稚小僧と呼んでいたのです。  差別・蔑視語の響きを感じさせる言葉であったと記憶しています。

  それでも「奉公 service」、「奉公人 servant」という言葉が日本でも使用されていたのです。  封建時代に「奴隷が主人に仕える」という意味に極めて近い使い方であったかと思います。  けれども、働くことができた男性が徴兵されるか、軍事工場に召集され、それまでの丁稚奉公制度という形での労働搾取は消滅したのではないかと思います。  現在では、別の形で、底辺労働者や底辺所得層が存在しています。

★  もともと、「人に仕えることで神さまにお仕えする」という意味で、少なくとも私が知っている範囲の米国の教会では、公同礼拝を表すときにサーヴィスservice という単語を使っています。

  たとえ神という単語を除外したとしても、公に仕えるという意味が強い言葉です。
軍務を含めた公的機関に就くという意味を含んでいます。

  サーヴィスという単語は、神さまや、他者のために奉仕する、仕える、尽力する、骨折り作業をする‥などと、奴隷のように他者に「仕える」ことを意味しています。
  しかしこん日の日本では、八百屋さんか、パチンコ店の「安売り」のような意味で気安く、無責任に使われていることが多いように思います。  「負けときまっせ」と大阪の商人が乱発するような使い方です。  本来は、「奴隷が主人に尽くすservus」という意味のラテン語でした。   servus そのものが奴隷 slaveという意味でした。
  初めから文句ひとつ言わないで、徹底的に「仕える」ということです。

★  もうひとつ「仕える」という言葉があります。  これも日本語に訳するのに困難を覚える言葉です。  英語でいう「ミニスター」や「ミニストリー」です。
  これも古いラテン語から古いフランス語に伝わった「より小さな者=従者」を表す「ministerium=mino」から来ている言葉です。  「service 仕える」と同じです。

  しかし、ミニスター・ミニストリーを日本語に訳しますと、「大臣」「政府閣僚」「内閣」などとなり、「下じもの民・百姓を支配し管理なさる、エライ政治家の先生がた」とか、「お役所」というように、本来の意味とは全く反対のものとして用いられています。  本来は「仕える者としての官僚や政治家」を指すもので、「公僕」の意味です。

  「公僕」と言えば、戦後一時この国で流行しましたが、今では死語同様です。
しかしアメリカでは、消費者運動の優れた指導者ラルフ・ネーダー Ralph Nadarたちにとって、この言葉は決して死語ではなく、生き続けていると私は思っています。

★  同じようにこの「ミニストリー」が「教会・キリスト教界」の中に持ち込まれますと、これも翻訳をするのに困難を伴う単語となります。  適切な日本語がないのです。  神さまと他者に喜んで「仕える」という発想が、日本の文化の中に、私たちの日常生活の中に欠落しているからでしょうか?
  つまり、職業的宗教人、位階聖職者制度の「牧師」となり、すなわち「仕える者」ではなくて、「師」がつく、エライ先生になってしまっています。  それほどまでに「牧師」という名称にこだわりたいのであれば、「僕仕ボクシ 」がよいと思います。

  近日中にキリスト新聞社の新しい企画で「ミニストリー」という定期出版物が出るようです。  日本語でじょうずに説明することができない誌名です。

★  今日このくだくだしい文章を書き始めたとき、元八幡山基督之教会に出席され、私のアジア諸国への奉仕活動を側面的に励ましてくださったMさんから電子書簡連絡がありました。

  文面から推測しますと、いわゆる「便利屋さん」のようなお仕事をなさっているのではないかというような印象を受けました。  アパートで孤独死された方の遺品整理作業と請け負ったので出かける‥と書いてありました。  心の優しいMさんらしく、「会ったこともない人の人生や要望を想像して、心情的にとても辛いものがある‥」と記されていました。

  それで私は、「今日なさろうとしているお仕事も、ミニストリーの一部である‥と私は考えているのだが‥と返事を出しておきました。  困っている人、寂しい思いの人への奉仕は、それは神さまへの奉仕以外のなにものでもないはずだ‥と返事をしておきました。  「仕えるということ」は、そういうことではないのでしょうか?
 Mさんが、祈りながら作業をなされば、それは立派なミニストリーだと思います。

★  さて、前置きが長くなりましたが‥
マタイ傳28章1節で、イェスによって愛され、主イェスを愛して仕えた婦人たちが、埋葬されたばかりの墓場を「見に」行きました。  マルコ傳とルカ傳では、婦人たちはイェスの死骸に塗る没薬・ミルラを持参して墓に行った‥とかいてあります。

  政治犯として処刑されたイェスの墓をローマ兵が頑丈に警護していました。そこを訪れても、婦人たちは死者から何も受け取るものがありません。  何か得するものがあったわけではありません。  死んだイェスから何かを受け取る、手に入れるというものはなかったはずです。  「得るもの」は何もなかったのです。

  それでも婦人たちは「墓を見るために出かけて行った」のでした。  不思議です。婦人たちは、ユダヤ人から誤解され、ローマ兵から不審な目で見られることを覚悟のうえで、むしろイェスの死骸に対して、「与える」道を、「捧げる」道を自ら選んでやって来たのです。

★  ここに彼女たちの優れた姿勢があると私は見るのです。
愛するということは、損得を度外視した、こういう姿勢によって裏付けされていると思うのです。  それでは、どうして墓にやって来たのか?と問われれば、彼女たちには特別な説明や言い訳はなかったものと思います。  何となく‥でした。

  強いて言えば、大好きであったイェスさまのことを思って、何となくやって来た‥ということではなかったのでしょうか?  愛することに理性的な理由付けを見いだすことは困難だと思います。  それですから、「得るもの」がなくても、「与える心」でやって来たのだと思います。

  「得るもの」が何もないときに、得られるものが何も存在しない場所で、愛する主イェスの死骸を案じて、危険や誤解をも顧みず、むしろ愛を「与えるため」に、死者に「仕える」ために、何人かの婦人たちがイェスの墓に到る山道を登ったのです。

  ここで彼女たちは、彼女たちがイェスの真弟子であることを証明しているのです。彼女たちはそのことに気づいていなかったのでしょうが、私にはそのように読めるのです。  イェスの弟子であることを具体的に、損得勘定抜きで、示していたのです。

  「to serve・to minister ・仕える・捧げる」とは、彼女たちのように、無意識の責務感、無意識の本分、無意識の習慣的な行為によって鼓舞され、敬愛する心によって促された行動で表されることがあると思うのです。

★  主婦が無意識の内に己を犠牲にしても家族のために日夜尽くしていることは、例えば家事、買い物、掃除、洗濯、育児なども、一種の serviceだと思うのです。

  もしその主婦が主イェスを愛している女性であれば、神さまの恩寵を意識しているのであれば、彼女の日常の行為は、はたから見れば「義務を果たしているにしか過ぎない‥」と思われがちな行為であっても、それは確かに ministry であり、service であるのです。

  神さまに愛されているということを、無意識であれ常に心の中に感じている女性が台所に立つときでも、洗濯機の前にいるときも、赤ちゃんのおむつを取り替えているときでも、買い物をしているときでも、それは神さまへの「奉仕・ミニストリー」となっているのです。  コロサイ書3章17節がそれを肯定していると確信しています。

★  日本にも、韓国にも、ヨーロッパ各地にも、アメリカにも、物質的に豪勢な生活を満喫している職業的聖職者は確かに存在しています。  頭がよくて、弁舌さわやかで、優雅に振る舞う人たちです。  金持ちでもあります。

  しかし、その反対に、目立たないところで、目立たない方法で、静かに、隠れるように、一所懸命に、誠実に、「人に仕えることで神に仕えている」福音伝道者夫婦が数多く存在していることも事実です。 損得勘定抜きで与え続ける奉仕者たちです。

  話は下手でおもしろくなく、貧乏で、うだつの上がらない福音伝道者たちです。人が来ようが来るまいが、そのようなことにはお構いなく、貧困にも黙々と耐えて、自分に与えられた才能のペースを崩さず、「仕えている」人々も、実はたくさん存在しているのです。 神さまからの祝福を常に無条件で分け合うことの専門家たちです。

★  マタイ傳28章1節に、『墓を見に来た』と書いてあります。
ここにもミニストリー、サーヴィスの無言の実際的な姿を見るのです。
  『汝、御言ミコトバを宣傳ノベツタヘ よ。  機オリを得るも機を得ざるも常に励め』と聖書は勧めています。  テモテ後書4章2節の勧めです。

  同じ精神から言いますと、無名の婦人たちが「主イェスの墓を見に行った」ということも、これは忠実な福音伝道者の姿勢であると言えます。

  マルコ傳14章3節やヨハネ傳12章初めには、ナルドの香油壺を割ってイェスの足を洗った女性のことが記録されています。

  ルカ傳8章1節~3節には、主イェスが少なくとも12人の弟子、あるいはそれ以上の外ソト弟子たちを率いて、巡回伝道をなさったことを記録しています。この大勢の巡回伝道旅行には、少なくとも10名前後の婦人たちが、イェス伝道隊一行の身の回りの世話をするために同行していたことを記録しています。  旅行全行程の全員の食事の世話、買い物、洗濯、休息中の世話‥、いろいろと世話をしていたのです。立派なミニストリー、サーヴィス、奉仕であったことに間違いありません。

  ルカ傳21章1節~2節には、レプタ二つを捧げた貧しい寡婦の姿があります。

  日本の教会に、このような、損得勘定ではなく、無言で黙々と仕える婦人がさらに増えれば、集会は、「仕える」ことにおいて優れた、専門家の力強い集会へと成長して行くでしょう。

  讚美歌 536番に『報いを望まで‥』という詩があります。  これもミニストリーです。  人に仕えることで神さまに仕えるという姿勢です。
  聖歌 338番に、『いとも善きものを君に捧げよ‥』という、神さまに仕えることを歌った詩があります。

★  ミニストリー、サーヴィス‥  日本語に翻訳することは困難かもしれません。しかし、「仕える」ことに難しい単語を使うことや理屈や説明はいらないのです。私たち自身がまず「ミニスター、サーヴァント、仕える者」となりたいものです。

  『あなたのパンを水の上に投げよ。  多くの日ののち、あなたはそれを得るからである‥  Cast thy bread upon the waters』と伝道の書11章1節は言います。

  そう言えば民数記18章29節にもミニストリーのひとつの方法が紹介されています。