★ 『マリヤは月が満ちて、初子を生み、布に包んで、飼草桶の中に寝かせた。
客間には彼らの居る余地がなかったから』...と、ルカ傳2章7節は語っています。
以上は、いわゆる、クリスマス聖劇に出てくる格好の良い有名な一場面の描写です。
しかし私は、この淡々と描かれている描写を、決して「格好の良い聖劇の一部だ」とは理解できないでいます。 天地宇宙を創造なさり、これを支配なさっておられる主なる神の、私たちに対する招きのメッセージであると受け止めているからです。
★ まず、彼ら親子? 三人が居ることができたかも知れない「客間」のことです。
アメリカのリーマンという金融機関の経営がおかしくなり始めたことから急激に加速した全世界の金融危機が日本にも深刻な影響を与え、この厳しい年末に職と住と食を失った人がこの国だけでも十万、二十万と続出しています。
すでに多くの人々がホーム・レスとなって都会のビルの片隅に段ボール箱で囲いを作って冷たい一晩を過ごして居る気の毒な姿をテレビは冷酷に放映しています。 あるいは、キリスト教関係者の炊き出しに列を作って食事を得て居る姿を紹介しています。 荒野で寒い暗黒の夜に羊を護る羊飼の姿のように私には思えます。
多少の蓄えのある人は、とりあえずインターネット・カフェーなどに行って、狭い部屋で一夜を過ごしているようです。
ルカ傳2章7節が言う「客間」と言うのは、そのような場所、誰でも身分を問われることなく休めるような場所を意味していると私は理解しています。
それは長距離夜行バスの待合室でもよいし、24時間連続営業しているハンバーガー・ショップのような場所でもよいと思っています。
自分の身分や家柄を問われることもなく、とにかく一夜を何とか安全に確保できる狭い空間のことを意味していたのが、ルカ傳2章7節が意味する「客間」であった...と理解するのが妥当かと思います。
ある程度の代価を払える人が宿泊するホテルとか宿屋という意味ではなかったと、私はそのように理解しています。 日本でも、敗戦直後までは木賃宿と言いました。
木賃とは、旅人が米を持参し、薪代を払って泊めてもらった安宿のことです。その程度か、それより以下のレベルの簡易宿泊用空間と理解したらよいでしょう。
そのような底辺労働者層が仮眠する場所ですら、この天地宇宙を創造された主なる神が宿られる場所がなかったということです。 貧しい私たちの中に来て下さったということです。 私たちよりも貧しい層の中にまで下って下さったという意味です。
★ 次のことです‥
無名の乙女の胎内に偉大な創造主が小さな胎児として宿られた...ということです。
このこと自体も私たちの想像を遥かに超越する発想です。 神さまの私たちに対する一方的な偉大な愛を如実に、具体的に物語っていることだと理解しています。
私は人類文化学者でもなければ、聖書学者でもありません。
しかし、イェスが誕生された当時のローマ帝国領土内では、特に地中海沿岸文化圏の中では、二元論というものの考え方が広く受け容れられていたと理解しています。
二元論 Dualismとは、ひとことで言いますと、世界を善悪二つの神? 原理? の闘争として捉える宗教的な世界観でした。 特にゾロアスター(拝火教)やマニ教などの考えの中心要素でした。 世界・宇宙の根源的原理を、精神的なものと、物質的なものとに二分して考えました。 聖書世界との関係ではグノーシス主義 Gnosticismと呼ばれ、人間を肉体・物質世界と、精神的なものとに分け、人間が物質的・肉体的な世界から浄化され、自分が次第に神となって行く‥なって行きたい‥と願望し、認識することで救われる‥という発想の、キリスト教会の中に深く浸透していた異端思想です。 ヨハネ傳にもピリピ書にも、この異端思想を排除する努力が見られます。
マニ教は摩尼教とも書きますが、現在のイラン、むかしのペルシャのゾロアスター教に、キリスト教と仏教の要素を加えた宗教のことです。光明は善で、暗黒は悪‥とする二元的自然間を教理とする思想・宗教で、多くの場合、信者は厳格な菜食主義や不姦淫主義、断食主義、浄身祈祷主義などを主張していました。
★ このような影響が地中海沿岸の宗教や思想に大きな影響を与えていた時代です。
ローマ帝国の占領と支配下にあったユダヤ人の多くは、実質的に底辺生活者であり、マリヤの婚約者ヨセフも貧しい肉体的労働者でありました。 社会的・経済的には、ほとんど半奴隷のような状態であったのではないかと私は思っています。
マリヤもまた、同様に最底辺層に属していた女性であったのだろうと思っています。
そのマリヤが、処女でありながら、妊娠したというのです。
すでに説明をしましたが、出産ということは、忌み嫌われていたもののひとつです。
それでいて、この世に男女が存在している限り、人類が避けることのできない大きなできごとです。 喜ぶ人と、忌み嫌う人が混在していたのです。
どうせ呪いのこの地上に住んで、そこから絶対に出られないように運命づけられているのだから、生きているあいだにはできる限り楽しんで生きてやろうじゃないか‥という、二元論の呪いと重荷を逆手にとって、人生を快楽の中に生きてやろうという発想もあったわけです。 エピクロス主義Epicureanism と言います。
そういう人生哲学で生きる人には男女の性と、そこから始まる妊娠ということも、肯定したのかも知れませんが、そうでない哲学を持つ人には、処女懐妊など、想像を越えた、非難すべきことであったでしょう。
出産とは、二元論が支配する文化の中で、旧約聖書だけでなく、マニ教でも姦淫ということは厳しい社会的拒絶を食らうことです。
それに加えて彼女が「聖霊によって子を宿した」と主張しているのです...絶対に通用しない言い訳をしている女を、世間がそう簡単に受け入れるわけがないのです。
★ 社会的にも最低層の名も知れぬ卑しい乙女の懐妊‥
これは私たちの想像を遥かに越えた醜聞以外の何ものでもなかったと思います。
天地宇宙を創造なさった主なる神が、こともあろうに、このような醜聞の乙女の胎を経て来たり給うたということは、何を意味しているのでしょうか?
エルサレムの宮殿に住む王子としてではなく、卑しい乙女の胎を借りて、この世に来たり給うたということは、そしてボロ布を纏って飼葉桶の中に寝させられたということは、同じ神があなたと私の中にも来たり給うことができるということを意味しているということではないのでしょうか?
★ ボロ布は葬る死骸に巻くことを象徴し、飼葉桶に寝かせるとは棺桶に収容するということを意味しているように思えます。 死と常に一緒にいるような私たちの存在に神が来たり給うということを意味しているのではないのでしょうか?
マリヤに宿られた神は、マリヤと大して変わらない私たち底辺層に喘ぎながら生きている私たちにも宿ってくださる可能性があることを意味しているのではありませんか? 神はそのように私たちを愛し、私たちを求めておられるということです。
吹けば飛び去る以外にないような私たちの中にも神がお入りくださりたいというのであれば、私たちは私たちの心の門戸を開いて、『主よ、お入りください』と言えるのではありませんか? そのことを黙示録3章20節が語っていると思うのです。
いわゆるクリスマスというのは、神が私たちのような卑しい者の心の内にも宿ってくださる...ということを意味しているのではありませんか?
聖歌 410番に『心の門を開け‥Let Him in』という讚美歌があります。
いわゆるクリスマスにふさわしい讚美歌のひとつだと思います。 如何でしょうか?