1960年7月10日~24日
ロサンゼルス市内ウエストサイド教会で語ったこと
★ 先週号「ベタニヤつうしん」に、半世紀前にロサンゼルス市クレンショウ地区に
あったウエストサイド教会で一世たちと二世たちに語ったことを、当時の原稿を基に
紹介しておきました。 或る方から送られてきたご質問に応えるためでした。
今回号もその続きです。 49年前の7月に3回にわたって語ったものです。
振り返ってみますと、二世たちの反応は極めて冷ややかであったと思っています。
太平洋戦争中は強制収容所に収容され、解放後も白人社会から長く疎外され、自らの
アイデンティティーの確立に苦しみ、加えて極めて律法主義的聖書理解と自己閉鎖的
信仰世界に導かれていた数名の二世たちは、何とかして教勢拡大をと願っていたよう
に思います。 三、四名による可視的面宗教儀式中心の日曜礼拝であり、主イェスに
出会ったという、喜びの生命の躍動を欠いたものであったと思っています。
人の手によって教会の教勢を何とか盛り上げたいと願っていた二世たちの在り方、
すなわち、律法主義的な在り方を問いかけた私の聖書理解を、数名の二世たちが理解
するのは困難であっただろうと思います。 その後、教会は解散してしまいました。
さて、以下が半世紀前にウエストサイド教会で語ったことの要旨です。
★ 現在(1960年のこと)の教会と、現在の人間の価値基準について‥
現在の世界中の多くのキリスト教会では、「成功というものさし」によってその教会
なり、その教会の牧師という人物の善し悪しが評価されているようです。
しかしそのような評価は、イェス・キリストの福音という視点から見てみますと、
それは遥かに劣ったものでしかないということだと私は考えます。
イェス・キリストの福音から程遠いものを現在の教会が追いかけているとすれば、
それは神さまに対する一種の逆らい、冒涜になるのではないのでしょうか?
『主が家を建てるのでなければ、建てる者の勤労は空しい』‥詩篇 127篇1節
★ 教会が主張することと、この世の無関心さということについて‥
私たちは、主イェス・キリストの福音だけがこの世を救い得る唯一のものだ‥と主張
しています。 私たちの教会だけがこの世を救い得る唯一の福音を語っている‥と、
そのように、そのような大言壮語のようなことを語って、得々としているようです。
そのようなデッカイ主張をする私たちの教会を、この世の人々が聞くときに、人々
は何を思うのでしょうか? 身近にある教会堂のことでしょう。
日曜朝に教会堂に集まって来る「善男善女」が、一握りの位階聖職者によって大仰
に営まれている可視的な宗教儀式に参加しているという程度の理解でしょう。
世間一般の人々にとっては、教会というのは教会堂のことであり、石や木で作られ
た建物のなかで、職業的宗教人である聖職者が、説教台から主張していること、説教
者を中心に営んでいる宗教儀式を考えるのが精一杯だろうかと思います。
その教会堂の中で、この世の営みとは全く無関係な職業的宗教人である位階聖職者
制度を唯一のよりどころと考えている牧師なり司祭が、教会の中に世界を救うことが
できる唯一の鍵がある‥と説いているなどとは決して考えていないはずです。
そのようなことを、教会の外に置かれている世間の人達は、信じていないのです。
教会が天下をひっくり返すことができる鍵を握っているなどと、そのような主張こそ
世の中の人々にとって、実に矛盾だらけで、絵に描いた餅、狂気の沙汰なのです。
教会堂のなかで、週に1回かせいぜい2回集まって、自己満足に耽っている善男善女
のたわごととしか理解できないのです。 そしてそれは正しい評価でありましょう。
ほかの表現をすれば、世の中の人々は、教会の言うことを信じてはいないのです。
★ 教会堂の中で繰り返して行われている宗教儀式行為のことですが‥
1週間には 168時間あります。 2週間に1回「教会に行く」という行為であれば、
それは 338時間に1回、せいぜい1時間か2時間ということになりますし、3週間に
1回「教会に行く」となれば 504 時間に一回だけ、そこで確信もしていないのに、
何の感覚も感情もなく、ただ単に形式的な宗教行事を繰り返し、繰り返して営んで、
それで「自分は敬虔なクリスチャンなのだっ‥」となりますと、これでは、まことに
「何かおかしい Something is wrong !?」ということになります。
このアメリカでは、1年に1回か2回だけ「教会行く」人がいます。 実に 8、760
時間に1回、「1年に1時間か2時間だけのクリスチャン」ということになります。
しかもその1時間ほどの初めと終わりの間に、合図があると、突然に神さまが何処
からか引きずり出されて来て、また何かの合図で神さまが何処かに押し出され、何処
かに引きずって行かれる‥ それで「神さまのことはオシマイ」で、元の世俗に思い
がさっさと戻って行くというのでは、世間の人が私たちを信じることもできないし、
私たちが信じ込んでいるという神さまを信じることはとうていできないと思います。
その1時間前後の礼拝をすら長過ぎる‥というのではなおさらのことです。
その1時間前後の礼拝の中で「神さまに捧げる礼拝・神さまに捧げる祈り、神さまに
捧げる讚美」と教会が主張する内容が、いつもマンネリズムの繰り返しでは、世の中
の人たちが私たちと、私たちの神さまを信用するわけ、できるわけがないのです。
主の食卓や献金の順番も週報や伝統で決まってしまっていますから、献金の時間が
回って来ますと、時には財布の中の硬貨がチャラチャラと音を立て始めたり、硬貨が
床に落ちて転がって来るということを私はあちこちの教会で目撃しています。指導者
たちが捧げる祈りも実は毎回同じ内容で、録音テープを流しているようです。
世間の人が、そのような宗教集団の中に「天下をひっくり返すいのち」があるとは
とうてい信じていないのです。 「敬虔なクリスチャン」の集会であるとは言えない
と思います。 それを世間の人々に信じてくれ‥というほうが無理というものです。
また、人によっては、「教会に来る」理由が、イェスを礼拝するということと全然
関係のない、ほかの目的や意図でやってくることがあります。 気にいらなくなれば
何の痛みも覚えないで立ち去ります。 あってもなくてもよいような気持ちで集まれ
ば、そこには「永遠のいのちに共に与る喜び」が存在するはずがありません。
教会堂で営まれている諸行事に対して、適当に、ほどほどに参加しておけばそれで
よし‥という姿勢では、その集まりは、生きた者の死んだ信仰行事、信仰儀式、信仰
行為の繰り返しにしかすぎません。 そのうちに、「生きたままで死んだ人の死んだ
宗教儀式‥」ということになってしまいます。 魅力も力もそこにはないのです。
★ それでは、教会(エクレシア・集会)とは、一体全体何なのでしょうか‥?!
イェスをキリストとして、救い主として受け入れた瞬間から、自分の魂が、その根底
から激しく揺すぶられた体験を経た瞬間から、主イェスがいつも自分の傍に居られる
という確信を抱き続けている者たちが、主の復活されたことを覚える一回りの初めの
日に一緒にひと所に集まって、主の食卓に招かれているのだという喜びと感謝の念に
満たされている状態を私たちはエクレシア、この曲がった世から呼び出された者たち
の集まりと呼ぶのだと思います。 それが聖書的な集会・教会・エクレシアです。
日々の生活の場で、イェスが私たち一人ひとりと共に居まし、共に歩み給い、常に
私たちの祈りに対して語り掛け給い、常に讚美に耳を傾け給い、私たちの苦情や抗議
にも微笑みの顔を向けて聞き給い、励まし、慰め、ときには諫め給う経験を私たちが
個人的に体験し続けているということが、そしてその恩寵に何とか応えたいとイェス
のことを思い続けることとが、それが礼拝そのものだと思います。 礼拝の一部だと
信じています。 イェスが私たちの心に焼きつけられている状態と言えましょうか‥
神さまに対して、そのような感謝と畏敬の念を抱く者たちが共に居るという状態を
エクレシアと呼ぶのだと、私はそのように考えます。
使徒行伝2章にかけて語られているペンテコステ(五旬節)の日に、イェスの弟子
たちが経験したあの個人的、そしてエクレシア全体としての体験を、私たちはこん日
でも極めて重要な信仰の要素だと自覚する必要があると思います。
自分の犯した大罪、すなわち、自分の罪の故に、この自分がイェスを十字架の上で
釘付けにしたのだ!‥ 神の独り子を磔刑にしたのだ!‥ 自分は罪人の頭である!
(テモテ前書1章15節)‥ という強い罪意識が問われています。
そのような大罪を犯したこの自分を、神さまはその恩寵の故に無条件で愛し、赦し
を与え、神さまの家族の一員として加えてくださり、とこしなえのいのちを無条件で
与えてくださったのだ!‥ 神さまの御国建設のために召してくださったのだ!‥
このような確信、神さまと神さまの無条件の愛に対して限りない信頼・信仰を抱く
者たちの集まり、集められた、集まった状態をエクレシア、教会と呼ぶのです。
ペンテコステの日のできごとの結果として、使徒行伝2章36節以下は、悔い改めた
人びとの鮮明な在り方を豊かに説明しています。 聖霊の賜物を頂いた人々の在り方
が説明されています。 聖霊の宿る宮(コリント前書3章16節)としての教会の姿を
私たちの日常生活の在り方の中でこの世に対して示す必要があります。
それは、すでに書きましたように、ペンテコステの日に、人々は自分の犯した大罪
が、神さまの一方的な恩寵によって赦されたのだ!‥おいらは罪から自由にされたの
だ!‥という、罪の赦しの喜びを、一人一人が、そして群れ全体が体験したのです。
それと全く同じように、私たちの罪も一方的に神さまの恩寵の故に赦されているの
ですから、私たちの日常生活においても、また、エクレシアに於いても、同じような
歓喜と讚美が私たちの集会に於いても示せるはずだと思うのです。
もちろん、このロサンゼルスのように、いろいろな民族や人種が集まっていますの
で、それぞれの文化や民族の違いということから、喜怒哀楽の表現方法は異なるかも
知れませんが、罪赦されたという喜びは基本的に同じであるはずです。
そして、最後に、教会とは何のために存在しているのか? 教会の「ものさし」と
はいったい何なのか?‥ ということを別の視点から考えて見ましょう。
ペンテコステの日に生まれた初代原始教会、ペンテコステのエクレシアは、この世
の価値基準に支配されない、この世の「ものさし」ではとうてい測ることができない
基準を持って始まったのだ!‥ ということだと、私は思います。
すなわち、この世が重要視する組織力とか、行為とか行事などを、初代原始教会は
全く知らない、知らなかった‥ということでしょう。 それでも迫害に耐え抜いて、
迫害の中で、教会は成長し続けて行ったという事実を使徒行伝から学ぶのです。
人々は喜んで集まり、使徒たちから聖書の説明を受け、十字架のできごとの意味の
説明を受け、喜んで主の食卓に侍り、喜んで資産を売り払い、喜んで貧しき者たちを
助けながら、迫害の中に在っても主イェスを知る知識と恩寵(ペテロ後書3章18節)
の中に育って行ったのです。
ペンテコステの日に生まれたイェス・キリストのからだ、すなわち、エクレシア、
呼び出された者たちの集まり、アッセンブリー、(漢字圏ではそれを「教会」と悪訳
してしまいましたが)を構成していたほとんどの人々は貧しい人々でした。
もしかすると、ローマ帝国内を廻り流れていたいろいろな層の貧しい人々、奴隷、
半奴隷なども居たでしょうし、数多くの寡婦や老婆なども居たものと思います。
神さまの一方的な赦しと愛に触れた人々は、新しい価値感覚を得て、お互いを助け
合う必要に気づいたのです。 自発的に持っている物を互いに差し出して助け合いを
したのです。 それは、彼らが十字架に懸けることを由としたイェスが、その生前に
言われたこと、すなわち、『このいと小さき者になしたるは、吾になしたるなり』‥
という教え、(マタイ傳10章42節、マルコ傳9章41節、マタイ傳25章40節)にも関係
があったものと思います。
エルサレムの教会の貧困状態を救うために、使徒パウロの呼びかけもあって、地方
の諸教会では、日頃から蓄えていた慈善の捧げ物 alms ・集金・収集を、一週の初め
の日の集会に持ち寄っていました。 貧窮者へのその信処・慈善をエルサレムの教会
に送っていたことをコリント前書16章1節~3節や、コリント後書9章5節~15節
から学びます。
初代原始教会は、貧しい境遇のなかにいる人たちと、神さまかがくださるいろいろ
な祝福を喜んで分かち合うことを実践していたのです。 自分の教会の貯金通帳用に
と捧げていたのではなかったようです。
この点でもこん日の教会の理解と姿勢は初代原始教会の理解と全く違い、おかしい
のです。 捧げられた献金を初代教会では奉仕のために惜しみなく使っていたようで
す。 あるいは、福音宣教や教育(マタイ傳28章19節20節)のために使ったものと
考えられます。 また初代教会は、福音伝道に専念する働き人をよく支えたのです。
2千年前とこん日では状況が違っている‥という言い訳が成り立つようにも思えま
す。 しかし人間の日常生活も、心の中も、基本的にはそんなに変化はないのです。
基本的には、どの時代でも、何処であっても、自己中心主義や自己弁解主義が教会
と私たちを支配し、罪が私たちを牛耳ろうとしているのです。
ルカ傳14章16節以下のイェスの譬は2千年前のイェスの時代のことでは決してあり
得ないのです。 実に耳の痛い、現在の話です。 それがイェスの譬の力なのです。
★ イェスの福音の基準、教会の基準、そして世間一般の基準、一度まじめに整理・
整頓してみる必要があるのでしょう。 神に属するものは神に戻し、この世の権威に
属す基準はこの世に返し(マタイ傳22章21節)、そして二つを混ぜ合わせて、主の教
会に持ち込んではいけないのです。 教会はこの世の基準では測れないのです。
測ってもならないのです。 神さまに属するものと、この世に属するものは別です。
★ ★ ★
保存しています原稿を見てみますと、今から半世紀も前に、ロサンゼルスの日系人
教会、ウエストサイド教会で、以上のことを2回に分けて一世の方々に、そして二世
の皆さんには1回でお話をしました。 ほとんど理解を得られなかったと思います。
クリスチャンであれそうでない人たちであれ、人間というものは、何年立っても、基
本的に少しも変わっていないように思います。
主よ、我を(我らを)救い給え! Kyrie eleison!です。