★ 文通を続けています教友の一人で、イェス・キリストに関する信仰やキリスト教
に関する広い分野の本を、とにかく読破する仲間にダン・スミスという人がいます。
母校ペパダイン大学が毎年主催する講演会で初めてお互いに対面できました。
朝鮮戦争に従軍した彼が撮影した当時のカラー・スライド類を、ソウル歴史博物館に
寄贈するように働きかけています。 ソウル歴史博物館でも期待しているようです。
そのことで電子書簡のやりとりをしていましたところ、今朝になってダンさんが、
最近読んだ良い本がある‥と教えてくれました。 新約聖書の文化人類学・考古学の
本のようです。 いつものようにマッケイさんを煩わせて注文することにしました。
★ ルカ傳14章34節~35節に記録されている「効きめを失った塩」のことです。
同じことをイェスはマタイ傳5章13節でも語っておられます。
たくさんの人が、わたくしを含めて、「地塩世光」について、イェスが言及された
ということを知っています。 特にマタイ傳のほうの譬は多くの人が知っています。
しかし、たくさんの人が、マタイ傳5章13節のことを、何となく素通り的に読んで
いるので、『ああっ、そんなことが書いてあることは知ってるよ...』と言いますが、
それでは、『なぜ塩が効き目を失うのか? 塩に何が起こったというのか?』となり
ますと、答えられる人は少ないかと思います。 そんなことを言うこのわたくしも、
実はその答を知らなかったのです。 お恥ずかしい次第です。 無知でした。
イェスの時代のパレスチナの人類文化学を学んだことがなかったからです。
学ぼうとすらしなかったわたくしの醜態です。 死ぬ瞬間まで求道は続くものです。
聖書に関することを知らないということ、知ろうともしないこと‥恐ろしいですね。
★ イェスはしばしば譬を用いられました。 それはイェスが語られる譬を聴く者が
そのことに思いを巡らして、イェスの意とされることを、めいめいが考えるようにと
いうことであったと思います。 しかし、少なくともわたくしは、イェスが語られた
譬の余韻に対して余りにも無感覚であったことを、今回の「役に立たなくなった塩」
の譬の意味を示され、不信仰であったことを告白せざるを得ませんでした。
★ 用がなくなった塩、効きめを失った塩‥
そのようなことは塩に限ってあり得ない‥と、づう~っとわたしは思っていました。
そのこととの関係で、詩篇12篇とヨブ記28章5節は背景説明をしているのです。
マタイ傳5章13節が言う「効きめを失った塩」よりも、ルカ傳14章35節のほうが、
よりよい背景説明をしています。 「肥料」という単語が鍵です。
「塩の譬」を語られたイェスも、イェスが語られた「効きめを失った、役立たずの
塩」の譬を聴いていた人々も、イェスが仰った譬、すなわち利かなくなった塩という
ことは、当然のこと、当たりまえのこと‥として理解していたということです。
私たちが生活をしているこの日本という国では、「効力を喪失した塩」という経験
がないのです。 イェス時代のパレスチナの日常生活と無関係だからでしょうか?‥
★ ルカ傳14章35節には、「肥料」という単語が登場しています。
上記旧約聖書の箇所は、古代からパレスチナ地方で、「地面を用いた窯」という生活
習慣があったことを示唆しています。 人々は地面の上に窯を作り、火を燃していた
ことを知ることができます。 火を燃すということは燃料と関係があります。
当時の人々は、乾燥させた家畜の糞を燃料として使っていたのだそうです。
乾燥させた家畜の糞を竈の燃料にするとき、あるいは、地面の上で火を起こし、火を
燃して炊事なり、何かほかの作業をする時には、人々は乾燥糞の最大効果を得るため
に竈の地面を平らにして、そこに塩を撒いてから乾燥糞を敷いたり、糞の上にも塩を
撒いて燃したのだそうです。 そのようにした塩の働きで、乾燥糞の最大効果を得て
いたのだそうです。 このような生活習慣の無い私たちの文化では、塩がこのように
用いられることを知るよしもありません。 少なくともわたくしは無知でした。
ところが、同じ地面の上に、同じ竈の地表に塩を撒き続けますと、こんどは、塩が
逆作用、逆効果をもたらし、乾燥糞が燃えなくなってしまうのだそうです。
最初の内は、塩の働きで乾燥糞が効果的な燃料となっていたのですが、同じことを
繰り返す内に、今度は地面に撒いて置いた塩の働きが逆に働き始めて、逆な化学反応
を塩がもたらして、乾燥糞を燃えにくくし、火力が衰え始め、そしてついに最後には
火が消えてしまうことになるのだそうです。 わたしは知りませんでした。
このようなわけで、塩の効きめが薄れて来た時には、古くなった塩を早めに取り除
く必要があったのだそうです。 役に立っていた塩が、役に立たなくなるのです。
★ このあたりに、イェスが時として、意味深長な譬をわざわざ使われたことの意味
があるのではないかと教えられた次第です。 言外により深い意味が秘められている
ことを、譬を聴く者たちが慎重に各自の判断でそこに秘められた意味を捜し出すよう
に求められたのではないのでしょうか?
そうだとしますと、役に立つはずの大切なものが、繰り返し無造作に使われるよう
になると、やがてその内に、それは本来の意味をなさなくなることがある‥と、その
ようにイェスがおっしゃりたかったのかも知れません。
★ そういえば特にマタイ傳で、「悟る」とか、「悟らない」とか、「悟れない」‥
という表現をイェスは数多く使われています。 確か11回ほどあると思います。
私たちにとって大切なはずの主イェスさまも、神さまも、聖霊さまも、ご恩寵も、
十字架のできごとも、聖書も、教会も、祈りも、礼拝も、讚美も、信者同士の交わり
も、私たちの魂の生存にとって欠かせないものです。 ありがたいものです。
しかし、これらが、無感動・無感覚・無関心に繰り返される内に、私たちは何をも
感じなくなってしまうのではありませんか? 宗教ゴッコ、教会ゴッコ化してしまう
のではありませんか? 初めの愛を見失ってしまうのではないでしょうか?
それは、自分の家族に対する思いや態度の堕落、感謝の念の欠如と同様に、自分の
不注意で、感謝なはずの信仰生活を劣化させてしまっているのではありませんか?
「地塩世光」であるべき私どもが、効きめがなくなっているのに、用がなくなって
いるのに、教会ゴッコを繰り返し、救いを必要としているこの世から主イェスの福音
を、そしてまた教会をゲットー化してしまっているのではないのでしょうか?
主の食卓に侍るとき、悔い改めをする必要があると、改めて覚えます。
譬とは、何処で、いつ、何を、誰が、どのように解釈し、実践するのか‥ それら
を問うものであり、各自が応答することを求めているものだろうと思います。