1960年7月3日 ロサンゼルスで話したこと
教会に大勢の人を集める牧師が伝道上手な牧師ですか?
それができない牧師は駄目な牧師ですか?
=質問に対する回答 その2=
★★★★★
★ 昨日、すなわち6月14日のベタニヤ集会の席で、土曜日に送られて来ていた質問
に対して、半世紀も前にロサンゼルスのウエストサイド教会で皆さんに説いたメモを
中心に、わたしなりの回答を、改めて出席者の皆さんと考えて見ました。
その内容を、すでに多くのかたがたには電子書簡で、21日の「ベタニヤつうしん」
で、それぞれお届けしておきました。 今回は更にその補足を試みてみます。
今回も49年前に同じウエストサイド教会でお話しましたメモを基に話を進めます。
「Measuring the Measureless 測れないものを測ろうとする」と題したものです。
★ 私が目を上げて見ていると、見よ、一人の人が、測り縄を手に持っているので、
「あなたは何処に行くのですか」と尋ねると、その人は私に言った。 「エルサレム
を測って、その広さと、長さを見ようとするのです」‥ ゼカリヤ書2章1節~2節
★ ザカリヤはハガイと同様に、70年間の捕囚のあと、国に帰って行くレムナント=
生き残った人々のための豫言者でした。 西暦前 520年前後が舞台となります。
バビロン捕囚直前の最後のユダの王さまゼデキヤの時代、英語ではゼデカイアで、
列王紀後書24章と25章、それにエレミア書52章1節~11節が背景となっています。
または、バビロン王ネブカドネザル2世(604?~561?BC)、エルサレムを征服し、
ユダヤ人を捕虜とした王の時代、列王紀後書24章~25章を生きた人物の時代が舞台。
さらに、キュロス大王(585?~529?BC頃)、アケメネス朝ペルシャの創始者の時代
が舞台背景となっています。 日本の私たちには馴染みの薄い時代と名前です!
★ 帰国を許された生存者たち、レムナントにとって、破壊されていたエルサレムの
再建は、大きな夢でもあると同時に、極めて困難な、骨折り仕事と映っていました。
周囲は敵によって常に監視され、狙われていました。 経済的には不可能に思える
ほどの大企画となりそうです。 心の底からエルサレムの再建を切望する信仰の強い
人々が大勢いたわけではありません。
このような環境の中で、一人の男が測り縄を手に、エルサレムの神殿を測りに行く
と叫んで飛び出して行く姿を豫言者ザカリヤが目撃したというのです。
教会成長運動の指導者よりも更に優れた、とんでもない勇気のある御仁のようです!
★ 今から 2,500余年も前に、神さまの宮殿の再建を願って、測り縄を手に、大胆に
飛び出して行ったこの人を、現在の状況の中に置いてみますと、どういうことになる
のでしょうか? この人は正気だったのでしょうか? 神さまを畏れる敬虔なユダヤ
教徒であったのでしょうか? それとも何処かがおかしかったのでしょうか?
この人を、現在という次元に置いて見ますと、どういうことになりましょうか?
エルサレムを測りに行く‥ということは、どういう意味になるのでしょうか?
★ 『これからエルサエムを測りに行くんだ!』‥この熱心さ、この情熱‥いったい
これは何を意味するのでしょうか? もしかすると、『神さまを測りに行くのだ!』
という発想と、結果的には、同じようになるのではないのでしょうか?
現在の私たちは、一言で言えば、主として統計学上の数字が支配する時代に生きて
いる‥と言えるのではないのでしょうか? そして、人々は、神さままでを測ろうと
試みているのではないのでしょうか?
神さまを私たちの手で引きずり降ろして、俎に乗せて、測ることをも厭わない時代
に私たちは生きているように思えるのです。 如何でしょうか?
信仰の世界に生きる、生きようとしている私たちは、このような理性・合理性だけ
の世界を拒否する者であるはずです。 しかし、実際には数字が教会を支配している
と私は考えて危惧しています。 とりわけアメリカの教会にはそのような傾向が強い
と思っています。 出席者数、献金額、集会回数などの多寡が優先されています。
教会の霊的な命が、いのちのない合理主義に押しやられてしまい、冷酷な数字だけ
が、在るべきではない舞台に躍り出て、教会の命を縮めてしまっていると感じます。
これは、そのような偽った、恐ろしい価値基準、ものさしによって過った方向へと
導かれ、そのようなものさしで神さまを測り、神さまを私たちの頭の中で制御・支配
してしまうに到るのです。 これが、実に罪がキリストの教会の中に侵入して営む、
恐ろしい業なのです。 神さまを自分の手縄で測ろうとする危険性なのです。
★ これこそが、私たちが極めて注意を払わなければならない点なのです。
神さまを私たちの合理主義や理性や統計上の数字で測ろうとする危険性なのです。
そのような発想が教会を襲うとき、私たちは神さま不在の恐ろしい暗黒の中へと叩き
落とされるのです。 そして、そのことに気づかず、「成功している牧師が牧会する
成功している教会」であるかの如くに錯覚・陶酔して、ハレルヤッ!と、自己中心の
宗教的阿波踊に酔い潰れてしまうのです。 神さまを測ろうとすることは、サタンが
そそのかす罪の業です。 特にサラリーマン化した、若い牧師が陥る落とし穴です。
★ それでは次に、人が人を測ろう‥とすれば、どういうことになるのでしょうか?
YMCAでは、人間を spirit, body, and mind というように分けて考えています。
私たちは、主として、私たちのたましい、私たちの霊性に関心を抱いています。
骨が体重の何分の一を占めている‥とか、燐分が何パーセントであるとか、そのよう
なことに関心があるわけではありません。 それは科学の世界に属することです。
『人の子は何者なので、神さまがこれを顧みられるのでしょうか?』‥詩篇8篇の
4節~9節のことです。 そのことを私たちは考えるのです。
神さまの栄光を顕す存在として、神さまの愛の対象として、聖霊の宿る宮としての
「この私」のことを問うのが私たちの特権と責務です。 私の品性のことです。
このことは、合理主義の数字では絶対に表すことができない面なのです。
ヨハネ傳3章16節にそう記されています。
ロマ書3章23節~24節やエペソ書2章前半部を読んでみますと、私たちすべての者は
かつて罪の内に在り、神さまの裁きにとうてい耐えられない者であったが、イェス・
キリストの十字架の一方的な恩寵と、そのことを信じる信仰によって神さまが私たち
を義なる者として下さった‥ そのことを、その恩寵を学ぶのです。
★ 聖書を読んでみますと、私たちが神さまを測るのではなくて、聖書が神さまの愛
とその御心を、人間の私たちによくわかるようにと、易しく説明しているということ
です。 聖書は、祈りということを測って、私たちに教えてくれています。
聖書は聖霊についても説明してくれています。 また聖書は、私たち人間には測る
ことができない、永遠のいのちについても説明してくれていますし、キリストの再臨
についても説明してくれています。 私たちが測れないことは、神さまのほうでよく
私たちにわかるように説明をしてくださっています。 それで充分なのです。
★ 「うだつの上がらない教会」とか、「うだつの上がらない福音伝道者」というの
は、聖書の中に記されていないことなのです。 それは不信仰な人間の発想です。
それですから、「俺はうだつの上がる牧師になりたい」とか、「あの人は人集め・
献金集めの上手な牧師さんだ」‥などという発想も、聖書がまったく知らない世界の
言葉なのです。 そのようなことを心の中で願う牧師も、そのようなことを口にする
教会ゴッコに熱心な信者も、実は共に福音からすでに転がり落ちている危険な状態に
居るのです。 神さまに属していることを数字で軽軽に判断してはいけないのです。
私たち福音伝道者は、そして主イェス・キリストの教会に属している私たち全員に
は、私たちに託された福音伝道と愛の奉仕の業に誠実に励むようにと、聖書は勧めて
います。 そして、私たちがくたばらないようにと、聖霊の賜物が与えられているの
です。 私たちには、信望愛というものさしが与えられています。 御霊の実を実ら
せるという人生の祈りの課題目標があります。 それは神さまからの贈りものです。
キリストの再臨という希望の確信が与えられています。 そのことを確認するため
に、主の食卓(聖餐・晩餐・パン裂き・ユーカリスト)に主イェス・キリスト御自身
が私たちを招いてくださっているのです。 これら凡ては恩寵によるものです。
私たちは、恩寵によって生かされている者です。 感謝しつつ、託された信仰生活
を忠実に一歩一歩進めて行けば良いのです。 信仰によらないことは、「信仰的だと
見えることであっても」、それは罪です。 行為義認主義です。 律法主義です。
恩寵から離れて、恩寵からこぼれ落ちてしまっている人間の業にしか過ぎません。
お互いに気をつけたいものです。 何でも人間が自分中心にできる、やれる‥という
ことではないのです。 神さまの恩寵に属する世界に、決して人の業を持ち込んでは
いけないのです。 教会ゴッコは信仰そのものでは在り得ないのです。
★★★★★★
以上は49年も前に、ロサンゼルスのウエストサイド教会でお勧めした時のメモに
基づいて再生してみたものです。 少しでもお役に立てば幸いです。