『ことば、言葉、言の葉』

★  「ことば」は、聖書の中で、極めて重要な意味を持っています。
ヨハネ傳1章では、言葉は神であり、言葉は神と共に在り、言葉は生命であり、言葉
は人の光であると説明しています。  そしてその言葉は、イェス・キリストご自身で
あると、そのように私たちに語りかけています。

★  そしてまた、ヘブル書4章12節では、神の言葉は生きたものであり、力があり、
両刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、
心の思いと志とを見分けることができる‥と、そのように説明しています。

★  その反対のこととして考えられることは、悪意を持つ人が、悪意の言葉を語る時
に、その言葉が他者の心を遠慮会釈なく刺し通し、切り刻み、相手の人格や魂を刺し
殺してしまい、その人の存在を抹殺してしまうに到るという悲劇を示唆していると思
います。  なぜなら言葉のほうが実際の両刃の剣よりも鋭いからです。  悲劇です。

★  優しい言葉、思い遣りのある言葉は人を生かし、賢い言葉は人を導き養います。
思慮や配慮に欠けた言葉、一方的な乱暴な言葉は人の心を殺傷します。  再起不能の
事態まで招きます。  お互いに注意しなければなりません。

  『いつも、塩で味つけられた、優しい言葉を使いなさい。  そうすれば、一人一人
に対してどう答えるべきか、わかるであろう』と、コロサイ書4章6節は勧めていま
す。

★  さて、言葉ということを、別な視点から考えてみましょう。
創世記2章16節~17節で、理想的な環境、すなわち、罪が存在していなかった場所、
つまり神さまのいらっしゃる所で、人は何をしても自由であったのでしたが、たった
ひとつだけ禁止されていたものがありました。  その単純明解な命令とは、エデンの
園の中心に生えていた善悪を知る樹の実だけは、これを勝手に採って口にしてはいけ
ないということでした。  言葉で神さまの意志がアダムに伝えられました。

  3章に到りますと、まず蛇がエヴァを誘い、神さまの言葉を疑うように仕向けまし
た。  そしてエヴァはアダムを誘い、禁断の実を口にしてしまいました。  ここでも
言葉が用いられました。  そして、その結果は、恐ろしい事態を全人類にもたらした
のです。  蛇の言葉がアダムとエヴァを神さまからの分離=死へと導きました。

★  創世記4章では、兄カインが弟アベルに言葉を掛けて荒野に誘い、弟を殺害して
しまいます。  言葉が最愛の弟を死へと招いたのです。

★  創世記6章の初めには、地の上に悪がはびこってしまい、神さまはご自分の創造
の業を悔いられたと書いてあります。  ノアの箱舟物語です。 どうして地上に悪が
蔓延したのか?‥ということですが、それは11章のバベル(=バビロン)の塔の物語
に答があります。

★  「全地は同じ発音、同じ言葉であった」と11章節は語ります。
すなわち、人々はお互いにの意思の疎通をするのに、同じ言葉で喋ることができたか
らです。 通訳は要らなかったのです。 自由に話し合うことができたからです。

  人々がお互いによく相談して、みんなで同意して、神さまを主として信じ、神さま
を中心にして、神さまに喜んでいただけるような信仰共同体を築いてゆくことができ
たはずでした。

  しかし、そこで人々が相談したことというのは、神さまのいらっしゃる天にまでも
達するような高い塔を建てて、驕慢不遜にも自己を神格化してやろう‥とする計画で
あったのです。  いったん人間が考えて実行し始めたことを止めることはできないと
神さまは見抜かれ、人々の意志の疏通ができなくするために、「言葉を乱された‥」
と書いてあります。

  人々の心の中に、私の心の中に、教会の中に、罪が存在する限り、私たちは悪い
ことを考え、悪い言葉を平気で、何の痛みも感じないで使ってしまうのです。
  他者の心を刺し殺しても、群れ全体が破壊に向かっても、平然と悪いことを考え、
悪い言葉を使うのです。  罪が更なる罪を招き入れていても平気なのです。

  気づくことができないままで、あるいは事の重大性に気づかないままで、神さまと
他者に対して深刻な罪を侵したままでいることにまったく気づかずに平然として居る
ことができるのです。  このことが、バベルの塔が物語っている、言葉の恐ろしさの
一部だと思います。

★  それですから、ヤコブ書3章では、いきなり、『あなたがたの内の多くの者は、
教師にならないがよい』‥という警告が飛び出して来ています。  そして舌が小さな
器官ではあるが、炎でもあり得るし、大きな森林を焼きつくすこともあり得る‥と、
そのように警告し、同じ舌で、同じ言葉で、神さまを讚美しながら、その同じ神さま
がお創りになった他者を呪うことがある‥と警告しています。
 同じ泉から甘い水と塩水を噴き出すことはあり得ないし、いちじくの木が、オリヴ
の実を結ぶことができないのと同じように、オリヴの木が、いちじくの実を結ぶこと
もあり得ない‥と、具体的に舌の恐ろしさを指摘しています。

  福音を語っていると自称している者たちも、語られた福音を聴いていると自称する
者たちも、自分の舌が口にする言葉に充分に注意を払う必要があるということです。

  それは、言葉というものが、剣よりも、遥かに鋭いものであるからです。
人を生かすこともできますし、人を殺すこともできる道具だからです。
その道具を私たちは神さまから託されていますし、それをどう使うかも託されている
のです。

★  さて、「言葉に関する雑想」の最後になりましたが‥
  ペンタゴンという五角形をした広大な建物がアメリカの首都ワシントンDCの近郊に
あります。  アメリカ国防総省の総合庁舎です。

  また、私が留学をしたすぐあとにアサヒ・ペンタックスという、画期的な写真機が
発売され、大きな話題を提供しました。  それまでの写真機の一部は、写真機本体の
上から画像を眺める方式でしたが、旭カメラ社が初めて五角形のプリズムを採用する
ことにより、より正確に被写体を把握することができる35ミリ写真機を発売したので
した。  ペンテpente というギリシャ語は、数字の「5」を意味しているのです。

★  使徒行伝2章全体に、主イェス・キリストの教会の誕生のことを語っています。
そこで、使徒行伝2章の初めの部分から読んでみますと、ここでは「言葉が割れる」
とか、「分かれた言葉」が、神さまの偉大なご用のために用いられたことを学ぶこと
ができます。

  ここまでは、聖書が語っている、言葉に関するいくつかの致命的な悪い例を考えて
みましたが、使徒行伝2章に到りますと、言葉が神さまのご用のために大きな役割を
果たしたことを学ぶことができます。  主イェス・キリストの教会の誕生に直接関係
するできごとのことです。

★ 磔刑に処せられたイェスを、あたかも「イスラエルを救いだす者であるかのよう
な妄想を抱いていた」(ルカ傳24章21節)ために、自らを絶望のどん底に叩き落とし
てしまっていた弟子たちは、人類がかつて体験したことのない、復活した主イェスに
出会い、更に混乱していました。

  悲喜こもごも入り交じったそのような混乱状態のなかで、彼らは、今度はイェスの
昇天という、これもまた驚くべき事実を目撃することを体験し、これがさらなる混乱
状態と、微かな期待を抱かせることになり、そのような状況の中で集まっていたので
した。

  そのような状態の中で、みんなが集まって祈っていた最中に、風のような轟音が、
「一同が坐っていた家いっぱい」に響きわたり、舌のようなものが炎のように分かれ
て、「ひとりびとりの上に」留まった‥と記されています。

  「そこにいた一同」と、「各自一人一人」の上に聖霊が降臨し、その結果として、
人々が、いろいろな国の言葉で語り始め、教会、エクレシアの誕生を証明したことを
使徒行伝2章全体が語っています。  人々が聖霊の賜物を得て宣教を始めたのです。
  そして、生まれたばかりの教会の最初のメッセージが36節に要約されています
その結果、教会の証言を聴いた人々の反応と結果は、37節~47節に語られています。

★  43節~47節で、聖霊に満たされた、新しく生まれたエクレシアの状態を学ぶこと
ができます。  言葉というものが、聖霊の働きを伴って、エクレシアの誕生の瞬間か
ら、大きな宣教の役割を担って来たことを学ぶのです。

  今日は、教会歴という暦に従えば、言葉のお祝い、ペンテコステという日だそうで
す。  使徒行伝2章によれば、聖霊の働きが、言葉を媒介して、主イェス・キリスト
のエクレシア、集会、教会をこの世にもたらした日です。

  言葉は、宣教のために用いられるべき強力な道具です。  人を生かす道具です。
罪のために用いる道具ではありません。  人を刺し殺すための道具ではありません。

  祈りというものも、私たちの心の奥底に潜んでいる思いを、舌で、言葉で、神さま
と他者の前で表現するものです。  神さまを讚美し、自分自身と他者との信仰の徳を
高揚するものだと思います。  讚美歌 308番はそのように証言しているようです