★ 先週26日に印度のムンバイ(ボンベイ)の高級ホテル街を中心として10数ヶ所で同時多発テロ事件が起こりました。不幸にして邦人一人も犠牲になりました。
あのような大混乱・大騒動のド真ん中で、私たちがホテルの一室に閉じ込められていたと仮定して、私たちの目の前に、得体の知れない屈強な男が抜いた刀を右手に、
突然出現したと、これまた仮定してみますと、見知らぬ男に対する私たちの反応とはどのようなものになりましょうか? どのようなことを瞬間に思うのでしょうか?
『あんた誰? 敵? 味方? どっち側?』‥ そんなところではありませんか?
★ ヨシュア記5章13節~15節に、目立たない、ちょっとした話が書いてあります。
それはヨシュアが率いるイスラエルびとたちが、いよいよ手ごわい相手が守っているエリコの城を攻めようとしていた矢先のことでした。
ヨシュアがふと目を上げてみますと、そこに屈強な軍人が一人すっくと立ち尽くしていたのです。 しかもその右手にはギラギラと輝いている大きな刀がありました。
ヨシュアの驚きようは想像を越えたものがあります。 恐怖心にあふれていました。
★ ヨシュアはおそるおそる大将に近づいて尋ねました‥
『あのぅ‥ あなたさまはどちらのお方でいらっしゃいましょうか? あなたさまは私たちのお味方でしょうか? それとも敵方の大将でいらっしゃいましょうか?』
見知らぬ屈強な戦士に対するヨシュアのこの質問はごく自然なものだと思います。
インドのムンバイの客室に閉じ込められていたとし、そこに武装した強そうな戦士が武器を手に現れたら、テロリストか警察側の者かわからなかったら、同じような質問をすることでしょう。 敵か?味方か?‥そのどちらかしかあり得ないのですから。
普通の場合、たとえば浪花商人が見知らぬ人に出会ったら、『このおっさんからはなんぼ儲かるやろか?』と心の中で算盤をはじくのかも知れません。
別の言い方をしてみれば、『損か?‥得か?』ということでしょう。
ヨシュアの場合には、『この巨人は敵なのか?‥それとも味方なのか?』でした。
ブーバーというユダヤの哲学者なら、『奪われるのか?‥それとも与えるのか?』ということになるのかも知れません。 「我と汝」の初めのほうの言葉です。
皆さんならどのような質問が飛び出すというのでしょう?
こん日の教会人のあいだですら、たぶん、『損か?得か?』の判断基準が支配的ではなかろうかと私は感じています。 物質が豊かになるに従って、この損得勘定基準が教会の交わりを著しく阻害し破壊して来ているのを、日本の経済的発展に伴い、私は多く目撃して来たように思います。
★ 久しく前から攻撃のチャンスを狙っていた強敵エリコ城を目前にして、一人でも多くの友軍兵が欲しいヨシュアにとって、強そうな将軍を味方に招きたかったことを容易に理解できます。 敵か味方か=損得どころではない、死活大問題でしたから...
ところがヨシュアのごく自然な質問に対してこの武将は、『敵でも味方でもない』と答えたのです。 『いや、どっちでもない Neither』と答えたのです。
これにはヨシュアは驚嘆してしまったものと思います。 戸惑ったと思います。
敵でも味方でもない大男が目の前にいるのですから... どっちかでないと困ります。
★ この武将がヨシュアに言明したことは、『自分は主の軍勢の大将として来た』ということでした。 この言葉の奥に問題を解く鍵が隠されているように思えます。
そしてそれは次の節、15節で明らかになるのです。
『汝の履物を足より脱げ! 汝が立ちおる処は聖き処なり!』... でした。
この声は、この命令は、実は、出エジプト記3章5節で、エホヴァなる主なる神がモーセに語られたこととまったく同じなのです。
モーセが神に召し出だされて、これから神から神ご自身のご計画がモーセに託されようとしていたときに起こったことです。 神の主権、神の御旨が支配していた場所であり、神の主権と神の御旨が今まさになされようとしていた時にモーセに語られた命令であったのです。
★ モーセに履物を脱ぐように命じられたと同じ神が、ヨシュアに対しても同じ命令を下されたのです。 ヨシュアが神の主権に従うのかどうか、神の御旨に添うしもべとして従うのかどうかが試され、問われた瞬間でした。
神がヨシュアの味方なのかどうか、神がヨシュアの味方になってくださるのかどうか‥ そのことが問われたのではなかったのです。
むしろ、ヨシュアが神の側に付くのか、神の主権の下で神に仕えるのかどうか‥そのことが問われていたのです。 しかし、ヨシュアはそのことを理解できず、物事を「敵か味方か、損か得か」という人間的価値基準、目先の算盤勘定で計ろうとしていたのです。 神を自分の欲のために、損得のために利用しようとしていたのです。
しかし、問われていたのは、ヨシュアが神のために、神の栄光のために、自分自身が用いられ得ることに気づけるのかどうか‥ そういうことであったのです。
私たちも、神を、主イェスの恩寵を、主が自らの貴い血潮で贖い戻された主の教会を、無意識にであれ、あるいは意図的であれ、利用しようとすることが、どんなにか神の前で恐ろしいものであるかを、考えてみる必要があると思います。
主イェス・キリストの教会は、私たちの「好き嫌いという感情的な基準」で決められるような安っぽいものではあり得ないのです。
そのようなことではなくて、私たちは神さまのために、神さまのご用のために、神さまのご栄光のために、仕えるために十字架を通して神さまの家族に迎え入れられていることを覚え、キリストの再臨の折りにはその栄光を仰ぎ見ることができる特権を覚えて、残された地上生命を捧げるべきではないのでしょうか?
神さまが私たちの側に立って、私たちに何か都合のよいことをして下さるのか?を求めるのではなく、私たちのような者であっても神さまのご用に用いていただけるのかどうかを祈り求めることが問われているのだと思います。 それがこのヨシュアの質問から学ぶべき意味ではないのかと、そのように私は考えます。
この狂い歪んだ世に在って主イェスの福音を一人でも多くの人々に語り伝えつつ、一方では、「いと小さき者」たちへの愛の奉仕に更に情熱を注ぎ込み、共に神さまの恵みを受け継ぐ喜びと感謝を体験してゆきたいものだと願うのです。
ヨシュアが武将と出会った意味は、そういうことではなかったのでしょうか?
今朝は短い聖書箇所でしたが、以上のようなことをご一緒に考えて見ました。