★ ベタニヤ集会に集われている一握りの皆さんの支援を頂いて、ようやく出版する
ことができるようになった拙著「トーマス・キャンベル物語」第4巻の 770頁に、
「余言者」の「余言」を加えておきました。
初代原始教会の姿を、素人の私が、何となく新約聖書や教会史を学ぶことにおいて
求め続けているあいだに、いつのまにか、信仰人生と肉体的人生の終焉を迎える節目
に突入していることに気づくことになってしまいました。 光陰矢の如し‥です。
わたくし自身の極めて限られた宗教的体験と世界から、 something' wrong?! と
いつも感じて来たことの一部を、今回の拙著 770頁で披露してみた次第です。
★ 別の表現を、聖書から借りますなら、マタイ傳27章22節のピラトの発言だと、
そのように思っています。
アメリカの教会も、韓国の教会も、限られた経験ですが獨逸の教会も、そして日本
の教会も、ピラトの発言を、どのように捉えているのだろうかと、疑問に思うときが
あります。 『十字架の上で磔刑タッケイされた、キリストと称えたイェスを、私たちの
教会も、私たち自身も、どのように扱っているのか?』‥ということです。
★ 私の罪の贖いのために死んでくださった主イェス・キリストを、一体全体、私は
どうしようとしているのか?‥ どうでもよいような、アクセサリー的な、便利な、
しかも遠い、遠い、観念的な、どっかの宗教上の、私自身の生活とは全然関係のない、
アーメン・ソーメン(狂・教?)の、十字架の上にまでも登った便利屋で、気の毒な
外国のオッサンとして、まあそこそこ適当に扱っているということでしょうか。
自分の命を賭けてまで、自分の人生を懸けてまで、何ものにも勝った愛する対象と
して受け容れ、このお方に喜んで頂くことこそを、自分の人生の目標としているのか
どうか‥、それとも観念的な偉人なのか?‥そのことが問われているのだと思います。
道理で、エクレシアに躍動する生命力が欠落しているのではないかと案じます。
決して人が何かをする‥しない‥という、行為義認主義的な発想で語っているのでは
ありません。 どのように主イェスの恩寵に応答しているのか‥ということです。