(一部加筆しました)
★ ベタニヤ集会を支えて下さっているわずか数名のかたがたのご好意で、4月には
拙著「トーマス・キャンベル物語」第4巻を何とか世に送り出すことができました。
今度こそは校正ミスのない作品をと願っておりましたが、結果的にいくつかのヘマ
が露呈してしまいました。 こうたびたびですと、自己嫌悪に陥ります。
★ さて、ヘマは扨置いて、同巻後半部に於いて、エライアス・スミスのことを紹介
しておきました。 そして、エライアス・スミスがユニヴァーサリズム、いわゆる
universalism普遍救済論に対して強い関心を抱いていたと紹介しておきました。
★ わが国を含め、世界の多くの非ユダヤ・キリスト教文化圏内では、多くの人々が
聖書を読めず、イェス・キリストのことを知らず、十字架のできごとを知らないまま
で、毎日毎晩、この世を去って行きます。 身近な国では、北朝鮮や中国のように、
共産主義が国民を奴隷のように抑圧しています。 聖書を読むことはできません。
日本でも、私たちの周囲に、家族・親族の中に、クリスマスという馬鹿騒ぎのこと
だけは知っていますが、イェス・キリストの生涯、イェスの十字架の意味を知らない
人々で満ち溢れています。 そしてイェス・キリストの福音をまったく知らないまま
他界して行きます。 福音伝道者の一人としまして、私はこれらの魂の行く先のこと
について、神さまがわからなくなりそうなほど、真剣に悩むことがあります。
残念なことですが、一部の自称福音派、福音原理主義者にとって、或はローマ教会
にとって、それらの魂は、永遠の滅び、地獄に直行すると教えているようです。
これが亦、私を悩まします。 まことにそうなのでしょうか? 愛の神さまが?
★ 或は普遍救済論者たちが唱えるように、結局のところ、すべての人々は、悪魔も
含めて、神が愛の神であるが故に、最終的には救われるのだ‥というのでしょうか?
『そんなら生きているあいだに、なるべく身勝手なことをやっとけばいい!』‥と
いう説と同じことになりましょう。 『どうせ死んだら仏になるんだから‥』という
のと同じです。 これも困ったことですし‥皆さんは如何お考えですか?
★ そのようなとき、私は聖書の中から幾つかの箇所を読むのです。
そのひとつは、 ロマ書2章12節から16節です。 2章の終わりまででもよいです。
神さまやイェス・キリストを知らないで、或は神さまが十字架の上で示された福音
を知らないままで、さらには聖書を全く知らないままで、そのような状態でこの世を
去る魂にとって、その人が生前その人なりに知っていた善悪のものさしに従って自分
をどのように制御し、そのものさしに従ってどのように良いほうを選んで生きていた
のか‥、このことを神さまはご存知であり、そのものさしに従って神さまはその魂と
向き合われる‥、そういうことを上記のロマ書は語っている‥と、私個人はそのよう
にその箇所を読んでいるのです。
どのような状況にあって生活していた魂であっても、その人なりに、人間が基本的
に抱いている善悪の価値基準というものを知っていたはずです。 その魂がその基準
に従って人生を歩んでいたのであれば、公平な神さまは公平にその魂を扱われるはず
だという確信です。
★ そして、もうひとつの基準、あるいはものさしだと私個人が考えていることは、
マタイ傳25章後半部に書かれてある主イェスの基準、主イェスのものさしです。
このものさしは、クリスチャンであろうと、なかろうと関係がありません。
自称・他称クリスチャンであろうと、church goersすなわち、教会に行っている人で
あろうと、教会の牧師であろうと、教会の指導者たちであろうと、そのようなことに
関係なく、すべての人に適用されるイェスさまの厳しいものさしです。
クリスチャンでない人だけを測る基準、ものさしというわけではないのです。
特に、クリスチャンと称する人々に対する厳しい基準、ものさしだと私は思います。
『あなたがたによく言っておく。 私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとり
にしたのは、すなわち、私にしたのである‥ これらの最も小さい者のひとりにしな
かったのは、すなわち、私にしなかったのである』と、イェスご自身が上記マタイ傳
25章35節~46節で語られたのが、すべての人を測るイェスご自身の基準、ものさし
なのです。
このことは、特に自称・他称クリスチャンや、そういう人たちが集まっている教会
という排他的な集団、そしてそれは多くの場合、自らを社会からゲットー ghetto 化
している集団に対して厳しい言葉であると私は考えています。
豪華な建物を誇り、その中で営まれる宗教儀式と伝統を重んじ、教会会計に巨額の
蓄えを有しながら、滅び行くこの世と、そこに住むイェスを知らぬ人々の存在に対し
全く関心も同情も寄せることなく、世界中に満ち溢れている貧しい人々に救いの手を
差し延べることを知らない宗教集団に対しての、イェスの厳しい警告だと思います。
ソウルの汝矣島ヨイド の広場で百万人伝道集会をビリー・グラムが開催していた時、
同じソウルの清渓川チョンゲチョン では、6万人もの人が、その日のパンがなくて、飢えに
嘆いていたことを私は知っています。
豪華な石造りの教会堂を建てることができる牧師とその教会が優れたクリスチャン
の集いである‥とする、そのような基準が常識とされ、その基準を更に越える教会堂
を築くことが目標となっている韓国教会を、東洋のエルサレムだなどと賞賛する韓日
両国のクリスチャンにとって、マタイ傳25章でイェスが宣べられた神の子である基準
など、全く眼中にもないのです。 「教会ごっこ」もここまで来ますと、もう話にも
ならないのです。 そのようなことを言う私が異端者、変人なのです。
★ 神さまとその愛を知らないで、イェスとその十字架のできごとを知らないままに
この世を去って行く人々の魂の行く先はどうなるのだろう‥?
そのような心配ごとは、実は神さまがお決めになることであり、私が案じることで
はないのです。 ユニヴァーサリズムも、ロマ書2章の中頃の論議も、実はどうでも
よいことのようです。 それよりも、私とあなたが、もっと深刻に考え、悩まなけれ
ばならないことは、マタイ傳25章のイェスの厳しい宣告であろうと私は思います。
同じ主イェスが、マタイ傳10章42節で次のようにおっしゃっています。
『私の弟子であるという名の故に、この小さき者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませ
てくれる者は、よく言っておくが、決してその報いから漏れることはない』
★ みなさんの救い、みなさんの魂の行く末、確かなのでしょうね?
天に宝を積んでおられることは確かなのでしょうね?
『裸で母の胎をでた私は、裸で帰ろう。 主が与え、主が取られるのだから、主の
御名は誉むべきかな‥』とヨブは1章21節で言います。
神を知らずにこの世を去る人々の行く先のことを案じるよりも、クリスチャンが、
dying broke 精神、すなわち、「主のご用のために捧げきって、無一文になってこの
世を去って行く精神」を胸に、マタイ傳25章に示された主イェスの勧めと警告を真摯
に受け止めることのほうがはるかに重要だと私は思うのです。 如何でしょうか?
★ いずれ別のこととして書かなければなりませんが、dying broke すなわち、
裸一貫で生まれて来たのだから、同じように裸一貫で死んで行く‥という発想と同様
に、マタイ傳27章22節のピラトの質問に、私も皆さんも、各自それぞれが対決しなけ
ればならないと考えます。
『さらば我、キリストと称ふるイェスを如何に為すべきか?』ということです。
他人の魂の行く先よりも、私の魂の行き先、あなたの魂の行き先のことです。
それは、生きている今という時間のなかで、答えなければならない緊急課題です。
イェスは、ペテロがヨハネのことでヨハネに対して複雑な思いを抱いていたことを
ご存知であったため、ヨハネ傳21章22節で、『この際、ほかの人のことはどうでも
よいのだから、ペテロよ、お前は私について来なさい』とおっしゃっています。
ほかの人の魂がどうなるとか、どこに行くのだろうかなどと心配する前に、私たち
はまず自分自身の魂の在り方と、自分自身の魂がどこに向かっているのかを、確かめ
る必要がありましょう。