★ 1968年夏に私が初めて韓国の地を踏んだ動機となったのは、当時若い韓国大学生
で金世福 Kim, SeiBok という青年からの韓国訪問促進状を受け取ったからでした。
韓国春川で国際大学生キャンプを開催したいのだが‥と、日本の教会に呼びかけた
文章を受け取ったからでした。 当時の韓国の国際的・国内的環境は整っておらず、
日本からは私だけが二、三名の東京YMCA英語学校の学生を連れて参加しました。
その後、金世福さんと交流が続き、当時はまだ韓国人がアメリカに永住する永住権
を入手することは不可能に近い状態でした。 そこで個人的に親しかったテネシー州
ギャラテン教会に対し、金世福さんのために牧師としての移民資格割り当て外の手続
を採るように依頼し、金世福さんの渡米と永住権の確保が実現したのでした。
そのあと彼の家族一族のアメリカ永住に到りました。 このようにして長いあいだ
金世福さんとの交わりが続いています。 家族一同がそれぞれ独立し、信仰者として
も、祖国から遥か遠くの地で、良く生きています。 良かったと感謝しています。
今回、まだ若いのに癌を患い、天父のもとにお招きが近い状態に到ったようです。
フロリダの病院に金世福さんを訪ねて行くこともかなわず、ひたすら祈っています。
★ 地上人生の終焉を迎えつつある金世福さんのことで思うのですが‥
人の地上人生の終点というものは、どんなに科学が発達しても、人がそれを予告する
こともできないし、それを阻止することもできないということです。 いやはての敵
ということです。 弥終と漢字で書きます。 コリント前書15章が語る問題です。
ヘブル書9章27節は次のように言います。 すなわち『人が一度だけ死ぬことと、
死んだ後に裁きを受けることとが、人間には定まっている』‥と。
しかし人は、このことを自分自身のこととして捉えることもできないし、理解する
こともしないし、できないのです。 ここに問題があります。 困ったことです。
ルカ傳12章13節~21節で主イェスは極めて重大な発言と警告をされています。
驕りたかぶった裕福な農民の畑が豊作となり、彼は自分自身に対して言いました。
『飲めよ、食えよ、楽しめよ!』‥と。 しかしその夜、彼の魂はこの世を離れる
ことになったのです。 マタイ傳6章19節~34節の主イェスの警告と同じ内容です。
★ イェスは、私たちが明日のことに不注意であってよい‥と仰っているのではあり
ません。 そうではなくて、私たちの日々の歩みのなかに在って、何が人生で重要な
ものであり、何が大切ではないのか‥このことを洞察し、このことを分別するのか、
分別しないのか、分別できるのか、できないのか‥ このことを問うておられるのだ
と私は理解します。
1985年に当地に移住して来たとき、ルカ傳10章41節~42節と、同12章13節~34節を
念頭に置いて、ここでの集会を「ベタニヤ・ホーム」と決めた理由のひとつは、ここ
に集まる皆さんとご一緒に、主イェスが仰しゃりたかったことを考えてみたいと願っ
たからでした。 すなわち、人生で何が究極的に最も大切なものであるのか、何がそ
うではないのか‥ これを考えて頂き、それを実践して頂きたいと願ったからでした。
ほかの言いかたをしますと、不必要な心配から解放され、不必要な心配から完全に
自由であるということで、私たちは神さまに仕えることができるということです。
人が人であるかぎり、心配ということは、あたかも影のように付き纏ってくること
なのかも知れませんが、人生で究極的にどうでもよいようなことに惑わされないよう
にすることと同じように、心配してもどうにもならないことに心を奪われないように
することを学ぶ必要があります。 それよりも、どのようにして神さまに仕えてゆけ
ばよいのかを求めるほうが大切だと思うのです。 心配して問題が解決できる程度の
心配など、心配ではないのだろうと思います。
何が人生で最も大切なことがらなのか‥ どのようしたら神さまと人に仕えること
ができるのか‥ どうしたら神さまの御旨の中に留り得るのか‥ どのようにしたら
神さまの御旨の中に居るという確信と共に日々の生活を一歩一歩進めて行けばよいの
か‥ どのようにしたら神さまの御旨の中に自分が居るのか、どのようにして神さま
の御手の中に自分が居ることを覚えることができるのか‥ このようなことこそ心を
砕いて求めるべき課題ではないのでしょうか? このことこそ、イェスがベタニヤ村
でマルタに問いかけられ、忠告された課題だと思うのです。 如何でしょうか?
★ そして、何よりも、私たちは過去を取り戻すことができないように、明日という
日も私たちには「ない」のです。 「ある」のは今日だけ、「今この瞬間だけ」なの
です。 多くのことを思い煩い、心配する時間も必要も、本当は、ないはずです。
『汝、神に出会う備えをせよ』とアモス4章12節は警告します。
『メメント・モリ memento mori = Remember that you must die!!』と教会は久しく
語り続けています。 『汝、死すべき身たるを覚えよ』というラテン語です。
今日という日に、私たちの魂が神さまのお傍に居ることが大事なのです。
『明日のことを思い煩うな。 それよりもまず神の義と神の国を求めよ』とイェスが
仰ったことを吟味して頂きたいのです。 『汝の魂、今宵にも取り去られるべし』
農夫は警告を受けていましたが、気づきませんでした。 明日はなかったのです。