『園で始まり園で終わる』

★  今朝の讚美のためにインマヌエル讚美歌集の中から 147番を選びました。
 I come to the Garden alone と題した美曲で、「祈りの園生」が邦訳名です。

  私の知っている限りという断りをつけておきますが、どの日本語讚美歌集にもこの
讚美歌は紹介されていません。  英語圏で良く歌われる讚美歌の一つの翻訳曲です。
ヨハネ傳20章15節~17節がテキストになっています。  復活を讚える奇麗な曲です。

★  海抜1、050 メートルの当地でも今年の遅い春がようやく訪れて来ました。
いろいろな植物が神さまの創造の業を無言の内に力いっぱい誉め讚えています。
  暖冬化が進んでいるとは言え厳寒期の凍土はコンクリートのように硬いです。
しかし凍土の下では新しい春に向けて植物たちは蘇生の春を待っていたのです。
毎年繰り返される凍土からの植物の復活は私たちに大きな希望を与えてくれます。
  当地でも遅い春が登って来ますと、それに従って野生動物たちの命の営みが活発に
なります。  そのことを庭いっぱいに観察できますし、感動させられるのです。

★  庭と言いますと、私は四つの「ガーデン・庭・園」を思うのです。
聖書が語るガーデン・庭・園のことです。  ご一緒にそのことを考えて見ましょう。

★  まず、創世記2章と3章が語る「エデンの園」のことです。
一つのことを除いて、人には何をしても許されていた自由なエデンの園で、罪が全く
なかった理想的な環境の内で、神さまと共同生活ができたエデンの園でしたが、人は
神さまの単純で厳重な言いつけを守ることができなくて罪を犯し、自らを神さまとの
交わりから遠ざけ、罪を背負って霊的な死を招き、結果的にエデンの園を追放された
のでした。  理想郷であったエデンの園での失敗物語が最初に聖書に出ています。

  人はその罪の結果として神さまから離れて、独りで罪の中を歩んで来たのです。
しかし、憐れみに富みたまう神さまは、人類の救いを御子イェスをこの世に送ること
で実現なされようとされました。

★  それは四福音書が語る二番目の園、「ゲッセマネの園」のことです。
四福音書の中でも、とりわけルカ傳22章~23章に描写されているゲッセマネの園での
一連のできごとの描写を熟読するとき、襟をただして、主イェスのお心とお姿とを、
信仰の目と耳とを総動員をして拝察する以外にありません。  感涙を伴う記録です。

  22章の初めには、主ご自身が「せつに願われた」最後の晩餐、あるいは主の食卓の
重要性を語っています。  そしてそこでイェスは御自分を「苦難の僕」としてだけで
はなく、「仕える僕」として弟子たちに示され、最後の教えを垂れ賜うています。
もちろんこれは、イザヤ書53章との関係で、極めて意味深いできごとです。

  主の食卓の席上、イェスは迫り来る御自分の十字架のできごとを弟子たちに語られ
ましたが、弟子たちにはイェスの受難の予告をほとんど理解できなかったようです。
  弟子たちの関心ごとは、自分たちのあいだで誰が一番偉いのだろう‥などという、
実に次元の低い、エゴ丸出しの人間的な関心ごとにしか過ぎませんでした。
  このことに関しては、イェスが「仕えることの重要性」を語られたことを除いて、
聖書は何も語っていません。  しかし、イェスの落胆は、迫り来る受難を前にして、
大きなものであったのではないかと、そのように私は推測しています。

  そしてその落胆は、ゲッセマネの園で血のような汗を流して真剣に祈られたイェス
の傍で同じ弟子たちが居眠りをしてしまったことで更に強められたのではないかと、
そのように私は考えています。

  42節~44節が描写しているイェスの苦悩と、苦悩の祈りは、感涙したくらいでこと
たりるというようなものではありません。  イェスの御姿を想像してみてください。

  43節では、イェスの祈りの激しさの故に、イェスの苦しみの強さ、深さのために、
天使が傍で仕えたことを伝えています。  ヘブル書1章14節は、「御使たちはすべて
仕える霊であって、救いを継ぐべき人々に奉仕するため遣わされるものである」と、
そのように説明しています。

  十字架上の贖罪の死を前に、イェスの魂を御国に導くために、イェスを励ますため
に天使たちが遣わされたほどですから、イェスの苦しみがいかばかりであったのか、
ほんの少しだけですが、私たちはルカ傳の描写を通して理解することができるかと、
そのように私は思います。  ゲッセマネの園がそのためにあったのです。

★  ルカ傳22章の47節~23章43節までに記録されているできごとを、ゲッセマネの園
でイェスはすでに見抜き、理解なさり、覚悟されていたものと思います。

  そのような理解でゲッセマネの園で血のような汗を流して祈られたイェスのお姿を
心の中に浮かべてみますと、贖罪の業に臨まれる「苦難の僕」イェスとゲッセマネの
園を少しは理解できるかと思います。  エデンの園で人が失ったものを、ゲッセマネ
の園で神ご自身が御子イェスの死を通し私たちのために取り戻そうとされていたので
す。  ゲッセマネの園は、それですから、「贖いの準備の園」となったのです。

★  次に聖書が語る第三番目のガーデン、庭、園のことです‥
それはヨハネ傳19章41節に紹介されています。
  『イェスが十字架に架けられた所には一つの園があり、そこにはまだ誰も葬られた
ことのない新しい墓があった‥イェスをそこに納めた』と記されています。

  エデンの園で神さまと一緒に居た新しい人アダムは、神さまによって新しい生命を
頂いたいのです。  しかし人はすぐに罪を犯し、そこで神さまを見失ったのです。

  エデンの園で神さまとの交わりを失った人間のために、神さまは改めて贖いの道の
最終確認をゲッセマネの園でなさったのです。  それはイェスの苦悩の祈りの中にも
充分に説明されていることです。  仕える僕、苦悩する僕としての、クライマックス
の人類贖罪劇が始まろうとしていたのが主の食卓とゲッセマネの園のできごとです。

  その十字架の上のできごとから三日のちにゴルゴタの死刑場の傍の園の墓の中で、
神さまは人類のために、復活と永遠の生命の保証をなさったのです。
  イェスが墓から復活なさったとき、神さまは人類のために新しい生命を取り戻して
くださったのです。  人間がその罪のために自ら失ってしまったものを、人間のため
に神さまご自身が、御子イェスの命と引き替えに、取り戻してくださったのです。

  週報の一番初めに紹介しておきましたように、コリント前書15章17節~19節は実に
重要な事実を語っているのです。  人は誰でも自分が駄目な者だと考えたくないもの
です。  しかしイェス・キリストの復活がなければ、私たちはこの世の中で最も哀れ
な、惨めな人間なのです。  しかし、イェスは復活され、弟子たちの前に現れ、その
後に弟子たちが見て居る前で天に挙げられて行かれたのです。  そしてその主イェス
は再び来たり賜うのです。  私たちは、その復活され、昇天され、再臨なさるイェス
をキリスト、救い主、生きて居賜う主として拝し、仕え、待ち望んでいるのです。

★  そして、最後のガーデン、園、庭といいますと、それは黙示録22章に記録されて
いる聖なる都にあるのです。  水晶のように輝いて居る生命の水の川が都の大通りの
中央を流れて居るのです。  川の両側には生命の樹が並んでいて、12種類の実が毎月
実り、その樹木の葉は諸国民を癒す‥と記されています。

  ここに私たちはかつて「失われたエデンの園」を再び見い出すのです。
呪われるべきものは何ひとつない‥と記されています。  そこには神さまと仔羊の座
があり、召し出された聖徒たちが仔羊を礼拝し、その御顔を仰ぎ見て居る‥と記され
ています。  仔羊の命の書に名を記されて居る者だけがそこに居るのです。

  私たちを贖い出し、その罪を赦し、とこしえの生命を与え、神さまの家族に加えら
れた者たちだけが、その園で神さまと贖い主なる仔羊を拝することができるのです。

  その日は、刻一刻と迫って来ているのです。  その日の備えを確かなものと致した
いものです。  如何でしょうか?