『御霊の「結ぶ」実は...』

★  ガラテヤ書5章22節には、「御霊の実は愛‥」から始まる一連の美徳が記されて
います。  私はそこに、敢えて「御霊の結ぶ実は‥」という、「結ぶ」という余分な
言葉をつけ加えた上で、「御霊の実」という一連の聖句が意味することを考えてみる
ことが多いです。  もちろんそれは私なりのガラテヤ書5章22節~25節の読み方であ
り、人さまに強要していることではありません。  あくまでも個人的な聖書の読み方
です。  神さまの言葉である聖書に私の個人的見解をつけ加えようとするものではあ
りません。  黙示録22章18節~19節の警告を忘れているわけではありません。

★  「ベタニヤつうしん」と題した私どものささやかな集会で発行しております週報
3月22号に二つの拙文を掲載しておきました。  列王紀上17章のエリヤさんに関する
もので、「烏に養われたエリヤ」と、「甕の粉は尽きず、瓶の油は絶ゆることなし」
と題したものです。  岩下和彦さんが作ってくださった www.bethanyhome.net/ 上に
掲載されていると思います。

★  マタイ傳17章は、イェスがその愛弟子ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い
山に登られたとき、イェスが変貌されたことを記録しています。
  そのことと共にモーセとエリヤが現れ、イェスと会話をされていたことについても
言及しています。  そのことは、神の国にとって、エリヤが、どんなにか重要な人物
であるか‥ということを意味しているものと私は理解できます。

★  しかし、最初からエリヤが神の国でそのような高い地位を得たのでしょうか?
列王紀上19章の初めの部分を読んでみますと、まだまだエリヤさんがそのような高い
地位を得られるような人ではなかったように思います。  15節以下で、エリヤさんは
神さまの恩寵のなかで、赦された者として、神さまにお仕えすることがどういうもの
であったのかを学んだようです。

  18章が語るような、文字どおり孤軍奮闘した勇者エリヤではない方法で、エリヤは
神さまに仕えたようです。  その重要なことを聖書は黙して語っていません。
  列王紀下2章11節は、エリヤが火の馬車に乗って、生きたまま天国に昇っていった
と記録しています。  聖書が語らない期間にエリヤは大きな仕事をしたのでしょう。

★  ガラテヤ書5章22節の「御霊の実」に、私が「御霊の『結ぶ』実」とつけ加えて
読むのは、『結ぶ』という短い言葉の裏に秘められた、隠された日常の積み重なり、
時間をかけ、忍耐を忍び、祈りを深め、烏に養われ、自殺寸前の寡婦の乏しい甕の粉
と瓶の油によって支えられて、無制限な恩寵をその日その時に体験するということを
常に私自身に言い聞かせたいからです。  「結ぶ」ということはそういうことです。
  人生という長い時間をかけて、ヨハネ傳15章が勧めるように、イェスに留まること
によって得られるものであり、短時間で、人の手で実を得ることは不可能です。
救いも、信仰の成長も、主の恩寵によるものです。  すべてを主に委ねることです。