サムエル記上16章4節
★ 創世記1章と2章を読むかぎり、神によって創られた人間は、神の創造の御旨に
従って、男女がお互いに補い合い、助け合い、励まし合い、愛し合って、神の秩序の
内に、神に仕え、神が創造なさった地球上に生きるすべてのものを、神に代わって、
神のために管理するという特権と責務を与えられたことを学びます。
しかし創世記3章に到りますと、人は神の命令を意図的に無視し、神に従うことを
拒絶しました。 そのことで罪が人のなかに宿り、神を離れ、他者を支配するという
かたちで今日にまで到っています。 他者を支配するという目的のためには、他者を
殺すということをも、人はその罪のゆえに、まったくいとわないのです。
罪あるままの人が、神の愛と支配のもとに戻ることができるようにと、独りの御子
をこの世に送り、十字架に架けてまで、私たちが救われることを願われた神の御心を
人はいまだ解せず、争うことを続けています。
武器をもって他者を支配するということだけではなく、身近なこととして、野球や
相撲や五輪大会にも見られます。 罪ある人間は他者と争うことが好きなのです。
そのゆえに、人類がイェスの十字架の贖罪の恩寵を経ないかぎり、人類が救われて
神の愛の支配のもとに戻ることは不可能なことだと、私は理解しています。
★ 人類文化学や人類社会学、加えて、教会史を正式に学んだことのない私ですが、
アメリカ建国時代の教会史を独学で学ぶ者として、最近に到ってようやく学び始めた
一人の人物があります。
デイヴィッド・リプスコム David Lipscomb (1831-1917) という先輩伝道者です。
リプスコムが30歳になったとき、内戦、いわゆる南北戦争が始まりました。
リプスコムが体験した南北戦争の日々が、いかに悲惨で、どんなにか恐ろしいもの
であったのかを、何とかして学びたいと願うようになり、遅蒔きながら、文献を読み
始めました。
戦争がどのように恐ろしいものであったのかを目撃し、体験したリプスコムや彼の
同僚や生徒たちのあいだには、武力使用反対の平和博愛主義思想や、人間が営むどの
ような政治体制に対しても、強い不信感が生まれてくるようになりました。
そのことは裏を返して見ますと、神の国を待望するという信仰 Kingdom Theology
が強められたということでしょう。 キリストが支配される千年王国を待望する姿勢
が一段と強くなったということでしょう。
残念なことですが、その後に起きた第1次世界大戦と第2次世界大戦が、私たちの
教会を、全体的に軍事肯定のものへと変えてしまったという事実があります。
同時に、そのことは、神の国がこの地に来ることを切望する願いを、教会から排除
してしまったと、私はそのように教会史の立場から観察しています。
★ リプスコムたちが強調したことは、「私たちクリスチャンはこの世に在るけれど
も、この世に属している者では決してない」という一点に集約できるかと思います。
私たちの国籍はあくまでも天に在るのだ‥ 私たちはこの世に在っては旅人であり
宿れる者たちである‥ ということでしょう。 そして「旅びと、宿れる者」という
発想は、旧約聖書にも、新約聖書にも強調されているテーマのひとつです。
英語圏では、聖書の次に愛読されている書籍として、バニアン著作の「天路歴程」
がそのような信仰理解を表しているかと思います。
★ この世に在りながらこの世に属さないという「旅びと宿れる者なり」の理解は、
しかしながら、この地上での旅を続けているあいだにおいて、この地上のことがらに
対して無関心、無感覚、無神経であってよい‥と主張しているわけではありません。
「平和ならしむる者」としての特権と責任、「地塩世光」としての役割があること
をイェスは説いておられます。 「蛇のように分別のある慎重さと、鳩のように柔和
で清浄であれ」とも説得されています。
★ マタイ傳10章16節でイェスがおっしゃった、「蛇のように分別のある慎重さ」と
いうことに注意したいと私は考えています。
わたしが10歳のとき、すなわち、1941年12月8日朝、「大本営発表」という放送を
聞いたときから始まった、あのいまわしいアジア太平洋全面戦争に関する政府発表情
報のほとんどが、実は虚偽であったということ、事実に反していたということでした。
当時の国民は、政府発表を全面的に信じ込んでいたということでした。
どこの政府でも、自分たちに不都合なことは公表しないのです。 相手を非難中傷
することだけが政府の仕事なのです。 そして、国と国とは、ほとんどの場合、常に
紛争の火種をお互いに対して抱いているという事実です。 国と国とはその利害関係
で争うものなのです。 世界中どこにでも国と国の対立は存在しているのです。
そのために、政府はその国民を世論操作し、国民を「拉致し」、政府の方針に服従
するように仕向けているのです。
このことは、私たちが住んでいる日本政府にもあてはまることなのです。
私たちの政府はうそをつかない政府だなど、そのようなことはあり得ないのです。
このことに対しても、私たちは「蛇のように冷静に見抜く必要がある」のです。
たいがいの場合、どの家庭でも、喧嘩をするのは身近な兄弟姉妹です。
それと同じように、世界中どの国でも、争うのは近くの国を相手にしたものです。
日本が太平洋戦争に負けた少し前に、それまでの同盟国であったドイツも連合国に
破れたのです。 そしてだいたい同じ時期から国家の再建を始めたのです。
しかし、ドイツは賢明な判断を勇気をもってやり、日本がやらなかったことがあり
ます。 それは戦後処理方法で両国の違いが現れ、それが現在までも続いています。
ドイツはかつて自国が侵略した近隣被害国に対して誠意をもって謝罪し、そこから
共存の道を選んだのです。 大統領ヴァイツゼッカーの優れた政策もありました。
しかし、日本は、日本が侵略したアジアの諸国に対して、カネを中心に解決すると
いう方法を選び、相手国の民衆が受けた苦悩を理解しようとする努力を欠いたまま、
不幸にして現在に到っています。
韓国も、朝鮮も、中国も、台湾も、旧インドシナ諸国も、フィリッピンも、インド
ネシアも、タイもインドも、それらの国に住む民衆はかつて日本が与えた多くの苦痛
を忘れてはいないのです。 日本は戦争に負けたが、今度は経済的侵略をやっている
と、そのように現地の人々は捉えている場合が多いように思います。
その中でも、とりわけ中国と朝鮮・韓国の人々にとって、日本軍の蛮行の数々を、
そう簡単に忘れることはできないのです。 私の限られた経験ですが、韓国国内各地
で、日本軍の蛮行の被害者のかたがたに多くおめにかかり、当時の話をたくさん耳に
しました。 つらいことでした。
韓国の人々の日本に対する憎悪の念は、そう簡単に消え去るものではないと、私は
いつもそのように感じています。 しかし、加害者側の日本人は、自国が侵した戦争
犯罪の事実をほとんど知らないのです。 韓流ブームで、ウォンが安いからと、大勢
の日本人が韓国を訪れて「いい気分」になっていますが、韓国国民がどのような複雑
な感情で日本人旅行者を目撃しているかということに、日本人旅行者は全く鈍感なの
です。
関東大震災のとき、どれほどたくさんの朝鮮人が荒川の土手で、日本市民によって
虐殺されたのか‥そしてその補償を何もこの国がしていないということすら知らない
ままで観光旅行をしているのです。
北朝鮮当局が日本人を拉致するという、実にひどいことをしたのは事実です。
許される筋合いのものではありません。 拉致された人々が戻されるように要求する
のは当然のことです。
しかし、それでは、そのこととは別に、この国が当時の朝鮮半島で、現在の北朝鮮
各地で、どのようにひどいことをしたのか‥ このこともこの国の政府や国民が取り
上げて、そのことに対する謝罪や補償もしなければなりません。
日本が朝鮮を侵略し、略奪をしたことのほうが、はるかに前のことであり、それに
対してまず謝罪する必要があるでしょう。 しかし、この国はそのことをしていない
のです。 犯した罪に対するお詫びと、それに従う補償をしていないのです。
これは片手落ちであると私は考えています。 政府がやらなくても、国民はそのこと
をやることができるはずです。
しかしこの国の国民は、政府によって巧みに操られ、政府によって巧妙に拉致され
て、相互に不信感を増幅し、相手を中傷誹謗することだけに操られてしまっているの
です。 北朝鮮当局による日本人拉致という犯罪を糾弾することに反対をしているの
ではありません。 そのこととは別に、日本という国家が犯した歴史的犯罪行為を、
戦争が終わってすでに64年も過ぎているのに、北朝鮮の国民に対して謝罪していない
ということは、極めて不自然な、非人間的な態度だと、私はそのように思います。
次に、国と国が争ったとしても、国民と国民が争う必要はないということです。
「国家の一方的な世論操作作戦に拉致される」必要はないのです。 争う国同士は、
お互いの言い分があるのです。 そうだからといって、「大本営発表に拉致される」
必要はないのです。 たとえ国と国が争っていても、国民と相手側の国民は、相互に
理解しあうことができるはずなのです。 国民が政府の世論操作に巻き込まれる必要
はないのです。 政府の詭弁に踊らされる必要はないのです。
先の戦争で私たちは「大本営発表」で散々な目にあわされたことを忘れてはならな
いのです。 いったん戦争が起これば、たいがいの場合、つらい目に会い、苦しむの
は必ず国民であり、そのなかでも特に弱い婦女子や病める者や老人なのです。
くどいようですが、国と国は争うものなのです。
しかし、そうだからと言って、国民が政府に操られ、拉致され、為政者の操り人形に
なる必要はないのです。 国民は為政者の誤りを是正する責務と特権があります。
イェスがおっしゃった、「蛇のように冷静に見抜く」ということは、そういうこと
ではないのでしょうか? 国と国とが激しく憎しみ合い、争うとき、相手側の国民、
北朝鮮の人々も、十字架の贖罪の対象であることを忘れてはならないのです。
先の太平洋戦争中にアメリカで発行されていたキリストの教会の一種の宣教機関紙
ワード・アンド・ウァーク the Word and Workを読んでみますと、アメリカの教会も
クリスチャンたちも、そして戦争のために帰国せざるを得なかった宣教師たちの多く
が、日本の教会とクリスチャンのことを案じ、祈ってくださっている記事ばかりだと
気づかされました。 「平和ならしむる者」の姿勢を示し教えられて感動しました。
★ 私たちは、イェスを神の独り子、そして私たち全人類の救い主として信じている
者たちであるはずです。 そのイェスが私たちに「平和ならしむる者」であるように
と教えられています。 私たちを地塩世光として用いたいと願っておられるのです。
わたしたちは、「穏やかなことのためにやって来た者たち」なのです。
それですから、私たちは、サムエル記上16章4節が言うように、穏やかなことをする
特権に目覚め、穏やかなことをする地塩世光の仕事に、平和を築き上げる責務にのみ
いそしむ必要があると、そのように私は考えているのです。
やがて皆さんが、「平和ならしめる者」として、「地塩世光」として、主の御前に
立つことになります。 そのとき、皆さんが主に対して、どのような報告をなさるの
でしょうか? 日々の生活に在って、外国の人々を含む他者とのかかわりに在って、
そのための準備が必要だと私は思うのです。
★ それから、あとひとつ、私たちが注意しなければならないことがあります。
それは、どこの国でも、いつの場合でも、為政者というものは、すでに述べましたよ
うに、国民と世論を操作して為政者の意図する方向にもって行くということです。
為政者による世論操作に、マスコミが用いられることが多いということもあります
が、そのこととは別に、マスコミ自身が、国民の意識や世論をマスコミ自身の都合の
ために操作するという事実があるという点です。 間違ってはいけませんが、彼らは
理想主義者集団ではありません。 営利目的の組織だということです。
公平中立を謳っているように思えるマスコミですが、どこの国のマスコミも為政者
が巧みに操作し利用しているという事実だけでなく、マスコミ自身が必要以上に世論
をある特定の方向に誘導する傾向があるということです。
為政者の「大本営発表」に加えて、マスコミも、したたかな経営魂胆を秘めている
という事実を見逃してはならないと思います。 マスコミは、必要だと判断すれば、
世論を操作し、国民を扇動して、ある特定の方向に導いて行く、巨大で強力な威力を
有している団体であることを忘れてはなりません。
たとえば、朝日、毎日、読売、それに NHKという権力集団を冷静に眺めてみれば、
彼らには彼らなりの価値観や政治意識を持っています。 経営のためには国民を扇動
したり、世論を操作することなど、朝飯前のことだと思います。
ひとつのニュース a news も、彼らの手にかかれば the news に変えられてしまう
のです。 このことは、現在では、一例を挙げれば、特に北朝鮮を必要以上に悪玉に
仕上げ、日本を善玉に摩り替えるという操作をしていると、私は考えています。
その点で、熱し易く冷め易い、一過性のお祭り騒動が好きな国民とその意識を操作
することぐらい、マスコミにしてみれば、簡単なことだと思います。
たとえば、北朝鮮がやることは何でも悪く、日本がやることは、何であれ、いつも
正しい、間違いはない‥などいうことはあり得ないはずです。
国と国とが対立する緊迫したときだからこそ、マスコミは冷静に、公平にものごと
をいろいろな角度から分析し、国民に報告し、国民が冷静な判断をするようにと啓蒙
し、導く責任があるはずです。 しかし、このことをこの国のマスコミに求めること
は甚だしく困難であろうと私は考えています。 自浄作用能力を欠いています。
そのように考えますと、為政者の「大本営発表」以上にマスコミの「大本営発表」
は危険であり、私たちはマスコミを冷静に監視する必要があると考えます。
今回の北朝鮮のミサイル発射事件でも、まるで北朝鮮が日本を攻撃するような報道
の仕方でした。 深刻な問題だったと私は考えています。 相互不信感と相互憎悪感
を増幅するような今回のマスコミの報道の在り方に対して、私たちは冷静に観察し、
マスコミへの抗議の声をあげるべきであったと思っています。
マスコミは、なぜ二つの国が対立し合うのか‥という原因や理由を客観的に国民に
示し、不必要な不信感や憎悪感を拡大することがないように、むしろ国と国が対立す
るときだからこそ、相手のことを冷静に学び知り、相手との平和共存の道を模索し、
相互尊敬と相互信頼の道を模索するように国民に貢献すべきであると思います。
しかしこの国のマスコミに対してこのような常識的なことを求めても、それは無理
というものでしょう。 その程度のレヴェルのものだと、残念ですが、思います。
それはこの国全体の精神的レヴェルが余りにも低過ぎるからです。
権威に弱い私たち日本人は、イェスがおっしゃったように、「蛇のように冷静で、
ものごとの本質を深く洞察する」能力を養わなければならないと思います。
そして、この世に在ってもこの世に属さない私たち、国籍が天にある、主イェスの
弟子たちは、「平和ならしむる者」として、「地塩世光」としての責任と特権を充分
に果たしてゆかなければならないと考えます。
なぜなら、私たちは「穏やかなことのためにやって来た者たち」だからです。