『門松や冥土の旅の一里塚』

汝ら新田を耕せ。
荊棘の中に蒔くなかれ 。
エレミヤ書4章3節 ホセア書10章12節

★『門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし』

室町時代の僧侶、一休宗純の作とされているようです。 物事も捉えようによっては全く別の見方ができるという意味でしょうか... 死をどう見るかということです。

★ 新年となり人々は思い思いの願い事を神仏に唱える傾向があるようです。
しかしそのほとんどは、えげつないほどに自己中心的なものです。 呆れ返ります。

そのような風潮が圧倒的な新年に際して、今夕のウイン・フィル新年コンサートの指揮者ダニエル・バレンボイム氏は、伝統的な新年の挨拶に加えて、中近東の平和を願うひとことを加えたことが印象的でした。 崇高な人類愛の信念と情熱に満ち溢れた、たぐいまれな優れた芸術家であり、博く深く高く学んだ人物だと知りました。

★ 新年が来たということは、ひとりひとりの終焉が迫っているということです。
そのことについて新約聖書ヘブル書9章27節は次のように明白に語っています。

『一度だけ死ぬことと、死んだのちに裁きを受けることが、人間に定まっている‥』

どのような人であれ、その人の身分や地位や富みや教養にまったく関係なく、人は必ず公平に死に到る‥のです。
この地上生命の長短の差こそありますが、必ず死が訪れるということにおいては平等なのです。
決して逃れることはできないのです。

公平・平等に誰にでも訪れて来る死ということにおいて、たったひとつだけ、他者との差を考えたいというのであれば、それは各自に「託された余生」を、各自がどのように意識して、それをどのように活用しようとするのか、できるのか‥ということではないのでしょうか?
それが死に打ち勝ち得る唯一の肯定的な生き方です。

このこととの関係で、去る11月22日に、「愚かなる者よ、今宵汝の魂とらるべし」と題した拙文を公表しました。その後半部に、嘗て東京YMCA英語学校夜間部に学んでいた勤労青年たちに私が問いかけた質問と、それに対する青年男女の応答の一部を紹介しておきました。

質問は、今夜死ぬとわかれば諸君は何をするか?でした。いろいろな解答がありましたが共通点が一つだけありました。「最後の瞬間に到るまで一生懸命に生き抜いてやる!」という一点にしぼられていたことでした。

主イェス・キリストの恩寵を個人的に受け入れた私たちは、これらの勤労青年たちの解答を遥かに超えた解答を出せるはずだと思います。 すなわち、死という最後の負の敵を相手に、主イェスのために、他者のために、己自身を徹底して捧げ尽くし、そのことによって自分自身を「死すとも生きる者、死に打ち勝つ者」とするという、一生懸命の肯定的な生き方だと思うのです。
ルカ傳10章27節~28節のことです。

別の表現をしてみますと、生きる意味をとことんまで追求し、自分の間際までを、神の恩寵を満身に受けた優れた作品として来たるべき後世に遺すという努力のことでしょう。 エペソ書2章8節~10節が勧めるように‥です。

神の御旨を知ることは私たちに到底できませんが、神が一番困っておられることの一つは、クリスチャンだと自称する人たちが、マタイ傳6章の19節~34節でイェスが説かれた大切な教えをほとんど守っていないということでしょう。
天に宝を積まないということです。生温い口先だけの自称クリスチャンだということでしょう。

この厳然とした恐ろしい事実を、ほかの聖書の言葉で置き換えてみますと、黙示録3章15章~16節がいちばんピッタリしていると思います。
すなわち、自分はクリスチャンだと自称しながら、私たちは永遠の命に到るための準備をほとんど何もしていないという現実でしょう。

天に宝を積む喜びを知らない「負の人生」の基本的な姿勢でしょう。
生きたまま死んでいる哀れな姿です。これは甚だ具合が悪いことです。
今年こそ恩寵の内にあって改めたいものです。

『私は義人のように死に、私の終りは彼らの終りのようでありたい』
民数記23章10節はこのように述べています。 皆さんの新年の願いと決意は?