『風に吹き飛ばされる籾殻の如し』

★  「この人なら国の危機を救ってくれると期待していたのに...  だめでした!」
麻生太郎を選んだ自由党員たちは異口同音にそのように期待していたはずでしたが、
結果は散々たるものです。

  「麻生がだめなので、この人なら国の危機を救ってくれると期待していたのに...
検察の手が届きそうです?!」  これら二つ、どこかで聞いたような表現です。

  そうです。  ルカ傳24章21節に記録されている、イェスを救世主として期待してい
たものの、十字架のできごとですっかり落胆し、故郷に戻るエマオの道中で、思わず
愚痴った二人の弟子たちが吐き出すように口にした表現です。

  イェスという砂の上に、イスラエルの解放と独立という楼閣を期待した、果敢ない
夢であったと、この二人の「弟子」たちが語ったのです。

★  永田町に新しいエルサレムを求めるということ自体がおかしいのです。
オバマに新しい神の国の建設を求めるということも、これもまたおかしいのです。

  いわゆる「主の祈り」という、ほとんどの教会が唱える共通の祈りがあります。
マタイ傳6章9節~13節と、ルカ傳11章2節~4節に記録されている祈りです。

  但し、「国と権能と栄光とが永遠に神にありますように」という頌栄部分をイェス
が祈ったのかどうかは、長いあいだ聖書学者たちが論じ続けていることです。
ディダケという文章に関係があるのかも知れません。

  そのことをここで問題にしているわけではありません。
それよりも、「主の祈り」の最初の部分、すなわち、『御国を来たらせ給へ、御心を
地にも行わせ給へ』という部分を、私たちは、多くの場合、ほとんど深く考えること
なしに唱えていると思います。

  しかし、そこでイェスは私たちに何を教えようとなさっているのでしょうか?
多くの解釈が成り立つものと思います。

  けれども、「この地上に神の国はまだ来ていない、まだ打ち建てられていない」と
イェスはおっしゃりたかったのではないのか?...と、そのように私は受け止めている
のです。  「神は愛なり」と言うとき「人は愛でない」と言うのと同じようにです。

  「天において行われている神の御旨のすべてが、その完全な意味において、この地
上では行われたことが嘗てまだない」事実をイェスが私たちに気づいてもらいたいと
お考えになっていらっしゃるのではないのか?...と、私はそのように理解しているの
です。

  神の絶対的な主権が行使される、やがてこの地上に来たる終末を指差しておられる
のではないか?...と、そのように私は受けとめたいのです。

  確かに、そのすぐあとにやって来た十字架のできごとにおいて、そしてその直後の
復活と、ペンテコステのできごとを通して、ある意味においては、神の国が打ち建て
られた、教会というかたちで、神の国がこの地上に実現した...と、そのように理解す
ることができます。  教会が約束されていた千年王国であるとも理解できます。

★  しかし私は、究極的に神の国の実現は、キリストの再臨と共に始まるものである
と理解し、そのように期待しています。  その日が来るまでは、この地上に神の御旨
を完全に代行できる人間の手による政府はあり得ないと理解しています。

  今月末には印刷製本を終え、当ベタニヤ集会の皆さんのご好意で出版できるはずに
なっています拙著「トーマス・キャンベル物語」第4巻の中で紹介しておきました、
神の国建設理念というものが旧宗主国イングランドから、広義ではヨーロッパから、
解放された新世界アメリカで打ち建てられる、打ち建てよう!...と移住者たちの間で
共通理解として存在していました。

  しかし、そのような「崇高な理念」を実現することなど不可能であると、まもなく
アメリカ市民は学ぶことになったのです。  南北戦争がそれを証明したのです。

  南北戦争の悲惨さを体験した教会指導者たちは、人間による人間政府の恐ろしさを
充分に学んだのでした。  その指導者たちの生徒らが私の恩師たちでもありました。

  日本国民を支配していた、天皇制を頂点とする大日本帝国という恐怖弾圧政策から
私たちが1945年に解放されたのでしたが、そして形式的には民主主義国家に急変した
のですが、そして一時期には「国民総懺悔運動」という、政府指導型の、名目だけの
反省運動がなかったわけではありませんが、「解放」=「新秩序確立」というわけに
はゆきませんでした。  私たちはそのことを現在の自民・公明政府で知っています。

★  ダニエル書7章を読んでみますと、四つのけだものが登場しています。
そのことに対する私見をここでは述べませんが、四つの獣は大きな国家権力を象徴し
ているようです。

  どんなに強そうで恐ろしいように見えるけだものであっても、神の国の前には全く
無意味だと学びます。

  詩篇1篇4節が謳いますように、「風に吹かれて飛び去る籾殻」のようで在っては
ならないのです。  それよりも1節~3節に示されているような者になることこそが
人生最大の目的であると、今回の永田町騒動で思うのです。

  『悪しき者の謀略ハカリゴト に歩まず、罪人ツミビトの道に立たず、嘲アザケ る者の座に坐ら
ぬ者は幸ひなり。  かかる人はエホヴァの法オキテ を喜びて日ヒルも夜もこれを思う。
  かかる人は流ナガレ の辺ホトリ に植えられし樹キ の期トキ到りて實ミ を結び、葉もまた凋シボ
まざる如く、その作ナスところ皆さかえん。

  悪しき者は然シカあらず。  風の吹き去る籾殻モミガラの如し。  然サレば悪しき者は審判
サバキ に耐へず。  罪人ツミビトは義タダシ き者の會ツドヒ に立つことを得ざるなり。
  そはエホヴァは義き者の途ミチを知りたまふ。  然サレど悪しき者の途は滅びん。』


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