★ 2月の最後の日曜日に、創世記2章7節に出てくる「土の塵」のことに触れてお
きました。 ユダヤ人が語呂合せを楽しむ人種であることにも触れておきました。
「土の塵」からできた「物質としてのヒト」を聖書ではビオス bios と言います。
「土の塵」のヒト= bios をアダーマと呼んでいます。
マルコ傳12章44節では「あらゆる持ち物・物質」として表現されています。
ルカ傳21章34節やコリント前書6章3節~4節にもビオスが出てきます。
その他には、使徒行伝26章4節やペテロ前書4章2節でビオスが使われています。
★ しかし「物質としてのヒト」 bios 「土の塵・アダーマ」では、神さまのご計画
の中で神さまとの交わりに参加することができないのです。
そこで神さまは、「土の塵・アダーマ」に対して、「ヒト bios 」に対して、鼻の
中に「神さまのいのちの息」を吹き込まれました。 神さまから「人格」を与えられ
たアダーマは、ここで初めて「人・人格を有する人・アダーム」となったのです。
神さまから「神さまのいのち」を頂いて、初めて「人格を持つ者」となったのです。
もはや bios ではなく、人格を伴う「いのち」を持つ「ゾーエ zoe」となったので
す。 このゾーエから英語の「ズー zoo」=動物園という言葉も生まれています。
動物学のことを「ズーオロジー zoology」と言います。 「神さまのいのち」を頂い
て初めて「ヒト」が「人」、「人格を所有する存在」となったのです。
新約聖書では、罪から解放された「霊的ないのち」を表す時に用いられています。
その意味で、使徒行伝17章25節など、数多くの箇所があります。
皆さんはご自分のことをアダーマ「土の塵」であるヒトだとお考えですか?
それとも、神さまの愛の対象として、アダームとしてご自分を捉えておられますか?
神さまの愛の対象者であるのなら、そのように私たちは神さまの相棒らしく自分を
理解し、神さまとの愛の交わりの相棒に相応しく在り得るように心がけなければなら
ないでしょう。 日々の生活の中で、そのような霊的訓練が必要だと思います。
★ ユダヤ人が語呂合せを楽しむ民族だと申しましたが、創世記2章23節の「男女」
という表現にもそれがよく現れています。
「イッシュー・男」から取り出したものだから「イッシャー・女」と呼ぼう...と、
とっても洒落ています。
「本質的に同じだけれども、少し違う‥、少し違うけれども本質的に同じだ‥」と
いう意味です。 そして、お互いにお互いがなければ成立しない人間関係である...と
聖書は男女を説明しているのです。
英語で man and womanとしても、漢字で男女と書いても、ユダヤ人の智恵には到底
及ばないのです。 脱帽です。
このようなユダヤ人の智恵を用いられた神さまにも脱帽と拍手と感謝なのです。
アダーマとアダームも、イッシューとイッシャーにも、創造主の偉大さが示されて
いるのです。 脱帽・拍手・喝采...よりも、実は、遥かに人知を越えた、感動と讚美
と感激と感謝の畏敬の念を覚えさせられる語呂合せであると私は考えます。