『讚美歌に表されている三位一体に関する雑感』

★  多くのかたがたのお休みが続いていましたので、2月中に紹介する予定であった
新しい讚美歌の幾つかを原文で改めて本日ご一緒に讚美してみました。

  私の推測では、おそらく多くのかたがたが讚美の歌を神さまに捧げておられる時、
詩の内容まで深くお考えになっていらっしゃらないのではないかと思うのです。
  それは、原詩と翻訳詩の両方にかかわるものですし、時には原詩と翻訳詩との間に
も秘められている場合があります。

  それは、その讚美詩が、いわゆる「三位一体」の神さまのどちらを讚美しているか
ということです。  「主、我を愛す」という有名な讚美歌では主イェスが讚えられて
います。  今回ご紹介する讚美歌で、幸いにもバプテスト教会系の新生讚美歌 230番
「主イェスの御前に」も主イェスが誉め讚えられています。

  アメリカ系の讚美歌には「イェスは主なり」とする讚美歌が多いように思います。
一方で、ドイツの讚美歌には「父なる神」としての讚美が多いように思います。
  私が所持しています30冊ほどのいろいろな英語讚美歌集にも聖霊を讚美するものが
少ないように思います。  「御子としてのイェス」を讚美するものが圧倒的です。
  日本基督教団の讚美歌の目次に目を通してみますと、聖霊に関する讚美詩は比較的
少ないし、歌われることも少ないのです。  合計10曲だけです。

  2002年度版の聖歌総合版を見てみますと聖霊を謳った曲は5曲だけです。
それ以前の聖歌でも5曲だけです。

  1965年出版インマヌエル讚美歌に「聖霊」としての欄はありませんが、思っていた
より少ないのです。  「イェスを主」として讚美するものが多いようです。

  バプテスト教会系新生讚美歌には、驚いたことですが、「聖霊」の欄に14曲が収納
されています。  しかし、その中には「三位一体」を歌う曲も含まれています。

  以上のことから判断できることは、「御子としてのイェス・キリスト  Sonship of
Jesus Christ」が強調されているのです。  いわゆる「三位一体」の中で、「御子」
と「父なる神」だけが断トツなのです。  「聖霊」は文字どおり影が薄いのです。

  残念ながらいわゆる「三位一体」論を中心とした教会史を学んだことのない私は、
同時にまた教会史の専門家でもなく、讚美歌史の専門家でもありませんので、これら
のことを語ることができないのです。

★  よどんだ金魚鉢の中の酸欠金魚のように口をパクパク動かすだけで、讚美の意味
を弁えないままで、口先だけの讚美は、これは神さまへの冒涜行為です。
讚美は礼拝の中心要素の一つです。  心から神さまを讚美したいものです。

★  なお、いわゆる「三位一体」という表現は、聖書の中にいっさい登場して来ませ
ん。  「聖書のことは聖書の言葉で語る...」という原則から言えば、「三位一体」と
いう表現は、必ずしも聖書的な単語ではないということでしょう。
エペソ書2章18節には「三位一体」を匂わせる表現がありますけれど...

  これらのことを皆さんはご自身でお考えになったことがありますか?  聖書は自分
で良く読んで、自分で正しく判断することが重要だと、私はそのように考えます。
  「誰々先生がそうおっしゃった‥」「有名な聖書注釈書がそういっているから‥」
ではなく、祈りながら自分で深く読むことが信仰の成長につながります。

★  「三位一体」ということは、ほとんど同時に、「それでは、イェスはどこまでが
完全な人間であり、どこまでが完全な神であるのか?」という問題を招きます。
いわゆる「キリスト論」といいます。  両者ともに古くから教会を悩まして来た論争
です。  讚美歌を歌うということには、二千年の歴史がつきまとうようです。
  今日はこれ以上触れないことにいたします。  皆さんご自身でお考え下さい。