『灰の水曜日と迎え人キリスト』

★  先週の水曜日は「トーマス・キャンベル物語」第4巻原稿執筆最終段階におりま
したのでいつものような週報の作成ができませんでした。

  ところで、ローマ教会では「灰の水曜日 ash Wednesday」と呼ぶ大斎始日、レント
初日ということで懺悔の象徴として頭に灰を振りかける日でした。

  レント Lent とは灰の水曜日からイースター・イヴ迄の40日間を指します。
但し、日曜日を含まない40日間という意味で、荒野でのキリストを記憶して、ローマ
教会などいくつかの教会では断食や懺悔を行います。  そのような宗教行事を行わな
い私たちは、どうやら怠け者なのでしょうか?  世俗化され過ぎなのでしょうか?

★ 私たち罪人は、意識的に、そしてまた、多くの場合、無意識の内に、多くの罪を
神さまの前で常に犯しているのです。 これは事実であり、誰も否定できないのです。
 そのことに気づいたとき、私たちは常に神さまの前にひれ伏して、十字架のイェス
の故に、赦しを乞うことができます。 中保者イェスはその執り成しの業をしてくだ
さることができる唯一の救い主です。 そして悔い改めることは大切なことです。
 そのために、神さまは、私たちのために、主の食卓を備えてくださり、主の食卓に
お招きくださり、そこで私たちは主イェスの十字架の贖罪の業と、やがて再び来たり
給う栄光の主イェス・キリストを覚えるのです。 「迎え人」キリストを...です。

★  敬愛する仲間のエド・ファッジ博士からの通信によりますと、そしてこのことは
エピスコパル教会研究の専門家でいらっしゃる、八王子のめじろ台教会の吉良賢一郎
先生に確認する必要があるのですが、英国国教会(日本では聖公会)においては司祭
が信者おのおのの額に少量の灰を用いて十字架を指先で描く日だそうです。
  十字架を描きながら司祭は、『汝、灰たるを覚えよ。  汝、灰に戻ることをも記憶
せよ...』と説くのだそうです。  これは聖書的発想で、すばらしい忠告です。

★  さて、今週初めには、ハリウッドの映画祭で賞を受けた日本映画「送りびと」の
話題を受けて、新型の霊柩車の紹介や、台湾の泣き女の紹介が行われていました。
典型的な一過性の、お祭り好きな日本人の特徴を良く表していると思います。
  これまで幾久しく死を禁忌していた日本人が、今度は突然に死の美化を始めたよう
な気がします。

★  しかし死を美化するということは、聖書的なことではないと私は信じています。
死は、罪のしるしであり、罪の払う代価だとロマ書6章23節やコリント前書15章26節
は語ります。  聖書に関係ないという人も、死に対してはまったく無力なのです。

  映画によって美化された死ですが、「死の向こう側にあることがらに関して」映画
は何も答えていません。  答がないのです。  「迎え人」不在では、どのような希望
も提供していないのです。  提供できないのです。  遺された者たち自身の気休め的
な自己慰安が中心の、これも一過性の儀式のように私には思えるのです。

★  死について常日頃から考えないのです。   家庭においても、社会に出たときにも
死を語ることをせず、死を考えることもしないのが東洋人です。  病室にも、駐車場
にも、旅館にも「4号」という番号が存在しないのです。  死を避けているのです。

  日本人は死を恐れ、死を避けているのです。  それは、「迎え人」がいないからです。
それですから、あたかも人生に死というものが存在しないかのように振る舞っている
のです。  その盲点を巧みに突いたのが今回アカデミー賞を受賞した日本映画です。

★  しかし、主イェス・キリストの復活によってのみ、最後イヤハテの敵である死は克服
されたと、コリント前書15章は語っているのです。  死に打ち勝つという小説も映画
も宗教もないのです。  聖書だけが死を語り、死のかなたにある勝利と希望と復活を
語っているのです。

★  教会が古くから警告している別の言葉があります。
メメント・モリ Memento mori です。  「汝、死を覚えよ」という意味です。
「汝、死すべき身たるを覚えよ!」とも意訳できます。
人は、罪の払う代価である死を、美化すべき対象とすることができないのです。
どのような人であっても、死を回避することはできないのです。  人生の終焉です。

★  創世記2章7節で、主なる神は地上の土の塵で人を作り、神ご自身の生命の息を
その鼻に吹き込まれた。  そこで塵からできた人が、実に「生きた人となった!」と
説明されています。  塵からできた人はアダーマと呼ばれていました。

  しかし、塵からできただけのアダーマに、神の生命の息が吹き込まれるに及んで、
アダーマがアダームになった、すなわち「生きた人」になったと、聖書はユーモラス
な語呂合せを利用して、本質的に重要な宇宙的真理を説明しています。

★  灰ということは、創世記18章27節、ヨブ記30章19節、イザヤ書44章20節、それに
マラキ書4章3節などで使われている場合、無価値の象徴という意味であって、塵と
同意語ということになります。  アダーマとしての人そのものは無価値で、塵と同じ
だということができます。  神の命の息、すなわち人格を神から受けるときに初めて
人格を持った存在としてのアダームになれるというわけです。

★  また、灰は、灰をかぶるとか、灰の中に座すという形で懺悔を表しています。
サムエル後書13章19節、エステル書4章1節、ヨブ記2章8節などに、そのような
表現が出ています。  また更に、犠牲の雌牛の灰は清めの儀式で用いられたと民数記
19章9節などに記載されています。

★  日本の映画がアカデミー賞を得たということで、それまでの長い日本の文化の
中で忌避されて来た「死」というものが、突然にブームの格好の話題とされるように
なりましたが、問題は私たちが死を自分のこととして捉え、自分自身の死に対して、
如何なる洞察を今後できるのか、するのか、死そのものをどうしようとしているのか
が問われていると思います。
  そして、そこには策もなければ希望もないという現実だけが残されています。
人には、死に対する解決策も特効薬も持ち合わせていないのです。

★  アモス書4章12節は言い続けています。  『汝、神に出会う備えをなせ!』...と
「送り人」がいても「迎え人」が居ないのでは、希望も慰めも励ましも在りません。
十字架のイェス、復活なさったイェスだけが、私たちの「迎え人」なのです。

  『メメント・モリ...汝、死を覚えよ』です。
そして「迎え人」をイェス・キリストに見いだせる人こそが幸いな人なのです。