『百卒長の人となりとその信仰から学ぶもの』 その2

★  先週号で百卒長のことを少しだけ紹介しておきましたが尻切れ蜻蛉的でした。
トーマス・キャンベル第4巻脱稿を目指して孤軍奮闘中であったからでした。
原稿を、印刷と製本をしてくださる勝田教会の伝道者福山次定先生に郵送できました
ので、マタイ傳8章とルカ傳7章に書かれている百卒長のことを再び考えてみます。

★  百卒長とは、文字どおり百人の兵卒を率いるローマ軍の身分の低い隊長のことで
す。  数字の百を表すラテン語のセンチュリオから派生した単語です。  日本語でも
百を表す単語として、センチ・メートルとかセンチュリーなどに使われています。

★  マタイ傳8章に出てくる百卒長がいます。  これが新約聖書最初の百卒長です。

  2番目の百卒長はイェスの十字架の処刑に立ち会った百卒長のことです。
処刑されるイェスを観察して、「まことにこの人は神のような人であった」と告白し
ています。  マタイ傳27章、マルコ傳15章、そしてルカ傳23章に記載されています。
外典福音書によればこの百卒長をペトロニウス、または、ロンギニスと紹介していま
す。  名前は、「キリストの脇腹」という意味だそうです。
(*大正年10月15日、東京市牛込區下6番地世界聖典全集刊行會發行「新約外典」)

★  3番目の百卒長は使徒行伝10章1節と22節に記載されているコルネリオです。
ペテロの宣教によってキリストを信じた、記録されている限りでは、最初の異邦人と
いうことです。  解放されたコルネリオ家の解放奴隷の末裔ではなかったかと言われ
ています。  神を畏れる人物という意味は、未だユダヤ教の割礼の儀式を経ていない
が、敬虔な人という意味のようです。

★  4番目の百卒長のことは使徒行伝22章25節に登場する百卒長です。
使徒パウロがローマの市民権を持っているということを知って狼狽した百卒長は上司
の千卒長 tribunus militum に相談に行ったと説明されています。

  千卒長の名はクラウデオ・ルシアであったと23章25節は語っています。
私は、ローマ帝国を含む地中海沿岸社会や文化のことを学んでいませんので、責任を
持てることを何も申せませんが、普通の場合 tribunus というラテン語から憶測して
みますと、古代ローマでトリビューン tribuneというのは護民官か軍団司令官を思わ
せます。  但し、千卒長が軍団司令官であり得たのかどうかは甚だ疑問です。
  なお、出エジプト記18章25節には、すでに軍隊組織に関する情報があり、千卒長も
登場しています。

★  最後の百卒長をユリアスといい、使徒行伝27章に登場して来ます。
近衛兵の百卒長であったと27章1節は語っています。  パウロをローマまで護送する
任を与えられた人物であったようで、パウロに親切であり、いろいろと便宜を提供し
ている様子がわかります。

★  さて、これらの百卒長の中で、イェスが賞賛されたのは最初の百卒長でした。
引退したローマ軍の下士官ではなかったのか‥など、いろいろな学説があります。

  マタイ傳とルカ傳との記録を読むかぎり、この百卒長がイェスと直接出会ったこと
があったのかどうかわかりません。  マタイ傳8章によれば、二人が出会ったように
記録されていますが、ルカ傳7章の記録では、百卒長とイェスとのあいだに、何人か
の人が中に立っています。

★  もしルカ傳7章を採れば、この百卒長と私たちは同じ立場にあると言えます。
まず、百卒長も私たちも、ユダヤ人から見れば、同じように異邦人です。  ユダヤ人
の考えでは、私たちは神と神の救いの計画に対して、選ばれていない民の一員です。

  そして更に、この百卒長と私たちは、いずれもイェスと顔と顔を合わせて出会って
いないという共通点があります。

  出会ったことのない異邦人の百卒長の信仰をイェスはいたく賞賛されたのです。
それならば、イェスと顔と顔を合わせて出会ったことのない私たち異邦人も、二千年
後のことになりますが、百卒長と同じ土俵の上にいるわけですから、私たちもイェス
に喜んで頂けるチャンスがあると思えるのです。

★  このことで、ペテロ前書1章8節は言います。
『あなたがたは、イェス・キリストを見たことがないが、彼を愛している。  現在、
見てはいないけれども信じて、言葉に尽くせない輝きに満ちた喜びに溢れている。
それは信仰の結果なる魂の救いを得ているからである』

  このことについてヨハネ傳20章28節も、『私を見ないで信じる者は幸いである』と
語っています。

★  そして、前回すでに触れておきましたが、イェスに出会ったことはないけれど、
二千年前の異邦人の百卒長が行ったと同じように、私たちも周囲の人々の必要をよく
注意して見ていて、必要であれば彼らの傍に私たち自身を置いて、人々の求めに応じ
て仕えることを実行することができるということでしょう。  人種や国籍や皮膚の色
に関わりなく、自分が出来ることを全力を尽くして黙々と実行するということです。

  百卒長がそうであったように、弱い立場の人々の声なき声に聞き入り、その必要を
黙って満たすということが、人間としても、とっても大切なことなのです。

  そうすることで、人々は私たちがこの世に在りながら、どこかこの世の人とは違う
人間であることを感じ取ってくださることができるでしょう。

  教会堂という箱の中に閉じ籠もって口先だけで『主よっ!ハレルヤ・アーメン』と
絶叫しなくても、日常の生活の中で周囲の人々に、『私の中に起こった革命的なこと
を見てください。  私の在り方そのものを根底から創り変えてくださったお方を見て
下さい!』ということが可能だと思うのです。

  私たちが口先だけで『それ信仰だ!  ほらイェスだ!』と騒ぎ立てることよりも、
愛の行為を黙々と人知れず実行することのほうが結果的にキリストに従う弟子として
良い証しを立てられると思うのです。

★  ルカ傳7章に登場する百卒長はいろいろなことを私たちに教えてくれますね