『十字架・シンボル』

★  初代原始教会時代のクリスチャンたちは、どのような場所に集まって公同礼拝を
していたのか?‥ という素朴な疑問に対して、聖書学者や考古学者たちがそれぞれ
の立場からいろいろな研究を重ね、いろいろな推測からいろいろな提案をしています。

  「家の教会」で初代クリスチャンたちは何をどのようにしていたのか?‥  という
質問もあります。  どんな人々が集まっていたのか?‥  という質問もあります。
  礼拝専門用の建物はいつごろから出現したのか?‥   どのような形をしていたの
か?‥  という質問もしばしば出てきます。  初代教会の人々は十字架をシンボルと
して使っていたのか?‥  という質問もあります。  いっぱい質問が飛び出します。

  火山の噴火で埋もれてしまったポンペイの町を調査している学者たちがさまざまな
情報を得ているそうです。  ほかのいろいろな場所でも同じような発掘調査が行われ
ており、それぞれが貴重な情報や埋蔵物を発見し、謎解きをやっているようです。

★  ポンペイで発掘された興味深いもののひとつとして、英語で綴ればROTASと
なる銘刻がたくさん出土したそうです。  この5文字を縦と横にすれば十字架の形に
なりますし、順番を並び変えると「我らの父なる神」ともなるそうです。
  またさらに、並び変えの順番を変えれば、上下か左右の初めと最後に、アルファと
オメガというギリシャ語の字が来るようにも組み替えることができるそうです。
「初めと終わり」ということは、神さまを表す伝統的な理解です。

★  当時のほとんどの人々はローマ帝国内を歩き回っていました。  このことはよく
知られていることです。  しかしクリスチャンはローマ官憲の迫害の対象でした。

  そこで、見知らぬ者同士がどこかで出会ったとき、自分がイェスを信じる者である
ことを相手に知らせるために、地面の上に英語の大文字のLのようなしるしを書いた
のだそうです。  相手がもしも同じようにクリスチャンである場合、先の者が書いた
Lに、上下左右を逆さにしたLを書き加えて、十字架のしるしを作り、さっと消した
そうです。  そのようにしてお互いを受け入れ合ったそうです。
  しかしローマの官憲がこの方法を見逃すわけはなく、囮を使ってクリスチャンたち
を逮捕する便利な方法として利用したそうです。

  このことから、「イェス・キリストは神の子・救い主」という五つのギリシャ語の
単語の頭文字を集めますと、偶然にも魚という意味になるので、そこから魚マークが
十字架マークに取って代わったのだ‥  という説も出てきました。

  映画「クォヴァディス  Quo vadis?」の中で身分の低いクリスチャンの女奴隷が、
同じくクリスチャンで上流階級の婦人の化粧を手伝っていたとき、意図的に女主人の
化粧粉を鏡台の上にこぼし、こぼれた粉の上に自分の右人差し指でサット魚マークを
書いてからすぐに消してしまう‥  という場面がありました。
  不幸にして日本人観客には、その瞬間的なできごとが何を意味していたのかわから
ず、クライマックスの緊張の瞬間を見逃してしまったと記憶しています。
  なお、クォヴァディスとはラテン語で、「主よ、いずこに行き給うや?‥」という
意味です。  ヨハネ傳16章5節から引用された疑問句です。

  そのほかにも、英語のTの大文字と同じように、T型をした、十字架の一種の変形
型も出土したと読んだことがありあます。

★  ところで、今日では十字架の型をしたものがほとんど世界中に蔓延しています。
キリスト教の施設や、教会堂の屋根の上や、礼拝堂正面や、窓からドアーに至るまで
十字架の形をしたものが使われています。  それらを見ても何の感動もありません。

  キリスト教と関係のない日本の結婚式場にも十字架が安易に使われています。
若い娘さんたちがクリスチャンでもないのに、十字架のペンダントを首からぶら下げ
てみたり、耳飾りにつけてみたり‥と、十字架の安売りが大流行しています。
格好の良い手頃な「ただの飾り」でしかありません。  それ以上の意味は皆無です。

★  しかし、イェスにとって、十字架というものはどのように映ったのでしょうか?
それは耐えられないほどの苦痛と屈辱と悩みの現実であり、人々に永遠の命を与える
ためにイェス自身に迫り来つつあった、父なる神からの厳しい御旨でありました。
イェスご自身が担わなければならない、避けられない、厳しい現実でありました。

  イェスにとって、十字架とはそのような辛い現実以外の何物でもありません。
そして若い女性がアクセサリーとして気軽に身につけるための品物でもないのです。

★  そしてそれは、クリスチャンにとっても、クリスチャンが全く無感覚、無関心、
無感動で眺めるための格好のよいしるしでもないはずです。
  『誰であれ、私についてきたいと願うのなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて
私に従って来なさい!』とマタイ傳16章24節を通してイェスが招いておられる厳しい
求道の道を指し示す具体的な現実だと思うのです。  狭い、絞られる門なのです。
  ぼんやりと、何気なく、あたかもひとごとのように無関心で眺める対象ではないの
です。  私たちに十字架を背負ってイェスについて行く意志があるのかを厳しく問う
現実なのです。  曖昧な態度で接することができる抽象的なものではないのです。

★  そのこととは別に、クリスチャンにとって十字架とは、詩篇23篇が約束し保証を
与えている現実なのです。  エホヴァなる主なる神がクリスチャンにとって個人的な
羊飼い、牧者であるという体験の現実なのです。  たとえ死の陰の谷底を歩んでいて
も、災いを怖れないという現実を指しているのです。  現実の体験なのです。
  生きている限り、必ず神の恩寵と神の慈しみが満ち溢れて伴っていることを現実に
体験している!‥という現実を十字架は意味しているはずです。

★  十字架を仰ぎ見るごとに、そこに示された神の大きな贖罪の業に、言葉を失って
しまい、感謝と感激と感動の涙で満たされ、神の偉大な偉業にただただ仰天してしま
うという現実体験を十字架が私たちに語りかけ、問いかけているのです。

  日本語ではバプテスト教会の新生讚美歌 322番に翻訳されていますが、『主イェス
の御前に驚き仰ぐ、この罪の身をも愛し給うとは...』という讚美歌があります。
I Stand Amazed in the presence of Jesus the Nazarene..素晴らしい讚美歌です。

  讚美歌 257番の『十字架の上に屠ふられ給いし』も、その隣の『貴き御神よ』も、
そしてほかの多くの十字架を誉め称える讚美歌も、主の食卓(聖餐)を前に、私たち
に私たちの十字架の主でいらっしゃるイェスへの在り方を厳しく問いかけているよう
に思えます。  そしてまた、そこで値のない私たちが、豊かに赦されていることをも
誇らかに告げ知らせているように思うのです。
  十字架は、あなたと私にとって、何を意味し、何を語りかけているのでしょうか?