『時を計る道具』

★  時間を測るものとして、具体的には、時計という便利な道具があります。
私の人生にも、時計をめぐるいくつかの記憶がありますが、それはまた別の折にでも
お話いたしましょう。

★  買い物依存症的傾向がある妹が、しばしば中国製の千円腕時計を寄越します。
時間を知るだけならそれで充分に用を達していますが、時計に使われている金属と、
合成皮革バンドの接着剤のせいなのかわかりませんが、皮膚が痒くなったり刺激され
たりで、不安感がつきまとっていました。

  そのため最近になって、順子さんに精工舎製品の普通の腕時計を、大枚1万3千円
ほどを支払って購入して貰いました。  それ以降皮膚の痒みは止まりました。

  そのことがあってから、それまでほとんど気にもしていなかった、新聞紙上に内外
高級腕時計の全面広告が掲載されているのを、何となく気にして見るようになりまし
た。  「たかが腕時計」と思っていましたが、一個の腕時計の値段が数十万円もする
とうのには驚きです。  重そうで分厚い腕時計です。  男性は機械ものが好きなのだ
ろうと思いますが、それにしても破格の値段には驚愕です。

  いつも正確な時間を告げる電波時計というものが広く出回り始めてなのだろうかと
思いますが、NHK の時報を告げる画面から時計の絵とピッ、ピッ、ポ~ンという時報
の音が消え去ってしまいました。  いやな改正だと思っています。  わずかに教育局
の正午の時報にだけ古くからの懐かしい時報画面が残されています。

  私が幼かったころには、土曜日のことを「半ドン」といっていました。
今では死語となって久しいです。  半ドンタクの略語で、午後が休みとなる日のこと
でした。  土曜日のことです。  もともとオランダ人が日曜を指して zondag と言っ
ており、太鼓の音で知らせたそうです。  土曜には太鼓の音数が半分だったとかで、
そこから「半ドン」と言ったとか、祖父からそのように聞いたことがあります。

  また、私が幼かったころには、「一番鶏」という単語も使われていました。
夜明けに鳴く鶏の叫び声で時間を言い当てていたと聞いています。  祖母などは鶏の
鳴き声で大雑把な時間を知り、起き出していたのを記憶しています。

  旧約聖書の時代には、夜明けを告げる専門職の人が城壁の上や塔の上で星空を眺め
ながら時間を告げていたようです。  イザヤ書21章11節、詩篇 130篇6節などが
そのことを示唆しています。  讚美歌 174番の「起きよ、夜は明けぬ」と讚美歌 218
番の「夜を守る友よ」は、上記の聖句から作詞されたものです。

  英語でウォッチ・マンWatch man =物見というのは、明けの明星を見ながら夜明け
を告げる「人間時計」のことだったのです。  そこから時の徴を見る...ということとなり、
キリストの再臨を待ち望むという姿勢を指すようになりました。  上記二つの讚美歌が
作詞されるようにもなっていった次第です。
  なお、自分たちだけの奇妙な聖書解釈を脅迫的な売り物にしている「ものみの塔」
という異端的グループの出版物の題名にまで使用されています。

★  さて同じく、時を告げるものとして私たちが利用しているものに、カレンダーと
いうものがあります。農業暦から出発した便利なもので、月日を知らせてくれます。
  年末になりますと、いろいろな業者からいろいろなカレンダーが届けられます。
そしてそのどれもが必要でないものなので、処分に困ります。  勿体無いです。

  自分が使うカレンダーは、自分の好みや便利さ、あるいは使用目的や掲示する場所
によって、特定のカレンダーを選び、決めている場合がほとんどです。  それ以外の
カレンダーは、ほとんどの場合、有難迷惑であり、市町村が指定するゴミ処分方法に
よっては処分に困るものもあります。  また、個人の好みがあり、ある人にとっては
芸術作品カレンダーであっても、ほかの人にとっては意味のないものです。  外国製
のカレンダーが送られてくる場合、祝祭日も異なり、有難くない場合が多いです。

★  便利だから使っているカレンダー、腕時計、電波時計‥いろいろな種類があり、
千円時計から数百万円までの腕時計までありますが...  共通点がひとつあります。

  それは、時計の場合には、「今・現在」という時間を告げるのが基本的な仕事内容
です。  そのために製造販売されており、私たちもそのために使用しています。
  カレンダーの場合には、ある程度までの過去と未来の曜日を知らせてくれます。
しかし、特殊なもの以外は、せいぜいでも過去と未来の一ヶ月間の曜日を告げるのが
主なカレンダーです。  一年間の曜日を告げるのがせいぜいです。

★  どんなに高価な時計でも、どんなに芸術性の高いカレンダーでも、しかしながら
私たちの人生、とりわけ未来を告げることはできません。  そして未来こそ私たちが
一番知りたいものだと思います。

  しかし、「ケセラ、セラ...」とスペイン語でスペイン人たちが語るように、そして
アメリカ映画「知り過ぎていた男」の主題歌で歌われたように、あるいは1970年に、
「レット・イツ・ビー」と、ビートルズが歌ったように、私たちがもっとも知りたい
はずの未来のことは、誰も語り告げてくれる人はいないのです。

  私たちにとって最重要情報を告げてくれるそのような正確で精密な機械は存在し得
ないのです。  どんなに人類の能力が発展し、知識と技術がどんなに進歩したとして
も、私たちに私たちの一番知りたがっている最重要情報を提供する機械などこの世に
存在しないのです。  存在し得る筈がないのです。  神さまに属する世界の事です。

  自己顕示欲の強い男女がどんなにダイヤモンドや宝石をちりばめた超豪華な腕時計
を腕にはめたとしても、そのことでその人が自分の人生の終わりを予知することなど
出来る筈がないのです。

  また、どんなに超高価な腕時計をはめてみても、その人の時計が示す時間と、普通
の人が使っている廉価な時計でも、時計が告げる時間は、ほぼ同じなのです。
1秒か2秒の違いがあっても、基本的に同じ時刻を告げる道具にしか過ぎません。

  さらに不幸なことは、豪華で高価な時計であっても、使用者の人生の長さを1秒間
でも長く伸ばすということはできないのです。  中国製の廉価腕時計では人の寿命が
短くて、スイス製の高級腕時計を使えば寿命が延びるということはないのです。

  自分の持ち物によって『自分の寿命を僅かでも延ばすことができようか?』という
マタイ傳6章27節の問いかけです。  人の寿命の長さとは、それは神さまがお知りに
なっているということです。  大切なことは、私たちに与えられ、託されている時間
の中で、私たちがどのように生きているのか?‥  どのように他者と自己と神さまの
ために生きるのか?...  このことだけが問われているのです。

  そしてさらに、どんなに豪勢な腕時計をはめていても、その時計が使用者の人生の
終焉時刻を正確に予告することなど全くできないということです。  これも神さまの
主権に属することであって、時計の市価価値とはまったく無関係なことです。

  『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。  たといたくさんの物を持ってい
ても、人の命・価値は持ち物にはよらない...』とルカ伝12章15節は言います。
  それよりも聖書は語ります。  『私たちは何ひとつ持たないでこの世に来た。
また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。  ただ衣食があれば、それで足れり
とすべきである...』  テモテ前書6章7節~8節の勧めです。

★  ここに聖書を熟読し、静かに祈ることの重要性があると思うのです。
神さまが私たち一人ひとりに託されている人生を私たちがどのように活用して、他者
に仕えることによって、神さまに仕える‥ということを聖書から学ぶということが、
とても大切なのです。

  ベタニヤでマリヤとマルタが主イェスさまから学んだように、私たちもベタニヤの
交わりから、私たちに託された時間と、それをどのように使えばよいのかを、ともに
学んで行きたいと、心から願うのです。

  『主よ、吾が終わりと、吾が日の数の如何ほどであるかを、吾に知らせ、吾が命の
如何に果敢ないかを、知らせてください』  詩篇39篇4節

  『我らに己が日を数えることを教えて、智恵の心を得させてください』
                            詩篇90篇6節~12節

  『私の齢ヨワイ は夕暮れの日陰のようです。  私たちは草のように萎れました』
                      詩篇 102篇11節と 103篇15節~17節

★  あなたは、あなたの寿命をどのようなもので測ろうとされているのでしょうか?
      腕時計ですか?  カレンダーですか?  それとも聖書によってですか?