★ 数年間にわたる極貧留学生活を或る事情で放棄せざるを得なくなり帰国したのが
1961年の晩秋でした。 帰国後順子さんと結婚し、葉山の漁村に住みました。
翌年初夏、軽井沢で行われたフラー神学校のサマー・スクールに参加しました。
その帰路、不思議な交通事故に巻き込まれ、もと軍医殿の処置ミスも加わり、結果的
に左腎臓を失うことになりました。
その時の大量輸血が原因で、C型肝炎ウイルスに感染し、現在では肝硬変が進行中
という状態でいます。 そのときに使われた大量の輸血液がC型肝炎ウイルスに汚染
されていたものだったとは医者も知らなかったのです。
★ 聖歌 425番は「罪の重荷を除くは主イェスの血の力‥Power in the Blood」だと
謳っています。 血の中には生命があるのです。 血は生命なのです。
★ 輸血と言えば、「エホヴァの証人」と称する宗教団体の会員家族が入院し、外科
手術が必要となるとき、患者側が輸血を拒否するということになり、医療施行者側と
患者側とのあいだで大概の場合一つの葛藤が生じます。 片や医療の立場から、片や
信仰の立場からの対立です。 両者のあいだで裁判沙汰になったり、輸血を拒否した
患者が死亡するということもあり得ました。 血が悪いからということではなくて、
血の中に生命があるということを両者が認め合っているために、両者が争うのです。
★ そのことは別として、創世記9章でノアの箱舟が再び大地に着地して、そこから
信仰の家族が再出発したと、そのように描かれています。
そしていろいろな社会的な約束事が神と人とのあいだで新たにとり決められます。
その一つに、それまで菜食であった人間に、肉を食べることが許されるという進展が
見られます。 しかし、『肉を、その命である血のままで、食べてはならない』との
制約が課せられています。 それは、「血が命のしるし」であるからです。
★ 十字架上でイェスがその肉を裂き、その血潮を流して、私たちの罪の贖罪の業を
なし遂げてくださいました。 これは大体の教会人が頭では理解していることです。
十字架を念頭に主イェスは、いわゆる「最後の晩餐」の席で弟子たちに向かって、
『この杯は、あなたがたのために流す私の血によって立てられる新しい契約である』
と、イェスは、ご自分の命を私たちのために十字架の上で流されることを予告されて
いるのです。 ルカ傳22章は、この十字架の出来事を予告するために、主の晩餐を、
『せつに望んで』おられたと記録しています。 15節がそのように語ります。
コリント前書11章23節以下で使徒パウロも、「主イェスから受けたこと」として、
十字架の出来事と、再臨の希望とのあいだに立たされている私たちに対し、主の食卓
の重要性を厳粛に解説しています。 ふさわしくないままで主の聖晩餐に侍る者は、
『主のからだと血を冒涜することになる』と厳しく警告しています。
葡萄の実からできたものとは、主ご自身の血潮を表し、主ご自身の命を表している
のです。 ご自身の命を与えてまでも私たちを愛してくださっている一方的な恩寵を
表わしているのです。 主の食卓で私たちは貴い主の貴い肉と血潮に与るわけです。
★ 今朝は讚美歌 331番、聖歌 163番、原曲 Must Jesus bear the cross alone? を
讚美しながら、十字架へ向かわれるイェスのお姿、十字架の上のイェスの苦悩と激痛
を偲びました。 そして主の食卓に主ご自身が私たちをお招きくださり、イェスの肉
と血潮を表すしるしに与ることを得さしめてくださいました。 血潮に命があるから
です。 感動と感激と感謝で主の貴いとこしえの命に与りたいと願います。
なお、讚美歌 331番は、数名の作詩者たちの作品を集めて編集したものです。
詳細を省略しましたが、更なる詳細情報をご希望の方はお問い合わせください。