『もう死にたいとエリヤ青年』

★  聖書箇所の中でも私がよく読む箇所の一つに列王紀前書17章~19章があります。
半世紀以上も前に初めてこの箇所を熟読するようになってから、読む度に深い感動を
覚え、自分自身を神さまの前に反省させられています。  素晴らしい聖書箇所です。

  謙虚にその人生を始めた青年エリヤでした。  生死の境をさ迷っていた赤貧寡婦を
通して伝道者としての基本的な在り方を学んだ筈のエリヤでしたが、18章では劇映画
の主人公のように目覚ましい活動を果たし、そのことによって伝道者として鼻高々の
誘惑の中に自らを陥れてしまいました。  「燃えつき症候群」が待っていました。

★  19章の初めで、己の能力や才能に溺れて、神の恩寵、神の支え、神が導いて居ら
れるということをすっかり忘れてしまっていた凱旋王のようなエリヤ大先生さまが、
ある女性の囁きがきっかけで、完全に燃え尽きてしまうこととなり、自らのいのちを
絶ちたいと願うほどになってしまっていたと、19章5節は語っています。

★  神の恩寵をすっかり忘れ去り、自分独りの力で凱旋王のようになっていたと思い
込んでいたエリヤでした。  二度と再び立ち上がれないものと自分勝手に決め込んで
自らの死を願ったのです。  人生は自らの力で過ごせると思っていた驕慢さでした。

  しかし6節~7節が語ることは、そのようなエリヤに対して神が、一方的にパンと
水という、人が生きて行くのに必要な基本的な食べ物と、充分な睡眠を提供されてい
たのです。  人生の道は遠くて耐えられないものだ...と諭されたと7節は語ります。

  そして、今度は、神の力に支えられ、導かれて新しい人生を始めるのです。
それでもエリヤは己の愚に気づかず、山頂で超自然的な異常体験を求め、その中に神
を見ようと試みたのです。  異常体験の中に神は居なかったのです。

  岩石をも砕き割るような強風の中に神を見ることを期待していたエリヤは、豪風の
唸りの中に神を見ることも、神の声を聞くこともできなかったのです。

  次いで激しい地震の中にこそ神が居るものと決め込んで、神を見ようとしたエリヤ
は、またしても神を見て、神と対決することができなかったのです。

  それでも懲りないで、驕慢不遜なエリヤは、燃え盛る炎、焼きつくす火の中にこそ
神の姿を見ることができると確信して、みずからが焼きつくされるという危険性をも
顧みずに、激しい火の中に神を見よう、神と対峙しようと試みたのでした。

  神を仰ぎ見たい...という願いは、一見して、実に敬虔な願いのように思えます。
「神がかってまで宗教的に熱心な人々」を見かけることが時々ですがありました。
  米国、韓国、フィリッピン、そして日本で、感情的に興奮する熱狂的な人々の集会
に招かれたことがありましたが、そこではそのような人々を多く見かけました。
  そこでは、聖書を冷静に読んで、聖書を通して聖霊の語りかけを聞き、神の言葉を
読むという姿勢も雰囲気も理解も願いもないように感じていました。  辟易でした。

  一見「神がかるほど宗教的に熱心な状態に居る」ということも、よく考えてみます
と、それはエリヤが陥っていた宗教的錯覚と誘惑と同じことだと私は思います。
  そのすべては、「人が何かをする、しない、した、しなかった」ということが中心
だからです。  これを行為義認主義と呼びます。  燃えつき症候群の候補です。

  人間は自分の能力や努力で、神が一方的な恩寵として十字架上で与えてくださった
救いを、手に入れることはできないのです。  それは神の側のお仕事であって、人に
できるものではないからです。  このことを理解しないで、理解できないで、どんな
に人間がしゃにむに頑張ってみても、結局は燃え尽き症候群を招くだけなのです。

  自らの死を願ったエリヤに、神がその恩寵によって立ち直る折を与えてくださった
のですが、それでも己の愚に気づかず、『私は万軍の主のために熱心な男でした』と
驕慢不遜な愚痴を繰り返していたのでした。  19章10節と14節がそれを語ります。

★  己のそのような愚かさに気づかないで意気ごんでいたエリヤに神はむしろ静かに
語りかけられたのです。  12節です。  「静かな細い声」で応えられたのです。
  イザヤ書30章21節は、『あなたが右に行き、あるいは左に行くとき、後ろから声を
かけて、こっちがあなたの進むべき道だから、その道を行きなさいと言う...』と証言
しています。

  まっ正面から現れる筈だと決め込んでいた神と対決してやろう...と勝手に推測して
いたエリヤの予想と期待に反して、エリヤの目には見えない神が、静かな細い声で、
そしてイザヤが言うように、もしかしたらエリヤの後ろから、囁かれたのです。

  異常で超自然的体験の中で神を体験してやろう‥と決め込んでいたエリヤに対し、
神は静かに語り、15節で、山頂の異常体験の中では、エリヤに対する神の意志と計画
を示されることはないのだ‥と諭されたのです。

  むしろ日常性の中で、日常生活の中にこそ、エリヤに対する神の意志と計画がある
と示されたのです。  それは、『山から下りて、あなたの道を帰って行って、大都会
ダマスコに行き、そこでハザエルに油を注ぎ、王としなさい』...という指示でした。

  自分の力に頼る疑似宗教的献身も、日常性から離脱した奇抜な異常体験も、それは
エリヤが憧れていたことなのかも知れません。  誤解していたことなのです。

  しかし、神はエリヤに対して、そして私たちに対しても、普通の日常生活の中で、
自力ではなく、恩寵に支えられながら主の道を歩むようにと教えられたのです。