『燃えつきたエゼキエル青年』

★  『下に‥下に‥』=下に居よ‥土下座せよ‥  江戸時代に、将軍や大名の行列の
先払い役の足軽・雑兵たちが行列の先頭を歩きながら、一般庶民、農・工・商人たち
に土下座を促した掛け声のことです。

  バプテスマのヨハネもそれと同じようにイェスの先を歩いて、人々に神の国が近づ
いていることを述べ伝え、悔い改める必要のあることを説いていたのでした。
  しかしヨハネは、不正を働く王とその愛人の悪だくみに陥り、牢に捕らわれてしま
いました。  獄中で自分が今までやって来たことに、ふと自信をなくしたのでしょう
か、使いをイェスのもとに遣わして、『来るべきはあなたのことでしたでしょうか?
それとも別の人を救い主として待つべきなのでしょうか?』と問いかけています。

  たくさんの日米の伝道者・牧師が「燃え尽き症候群」・「バーン・アウト症候群」
というのに罹っているのを承知しています。  精神的に疲労困憊してしまっているの
です。  『何でこの俺さまが?』と悩むようです。  まことにお気の毒です。
  この burn-out syndrome  挫折感、私のように中途半端で怠け者には全く無関係の
症候群のようです。

★  民数記4章23節を読みますと、30歳になったユダヤ人祭司は神殿での礼拝儀式を
取り司ることが出来るようになっていたと読めます。  エゼキエル青年もそのような
特権を担う使命感と自負心とに満ち溢れていたものと推測できます。

  ところがです‥  エゼキエル書1章の最初の部分を呼んでみますと、祭司職に就く
直前になって、青年エゼキエルは、思いもよらなかったことですが、ほかのたくさん
の同胞たちと共に、エルサレムの神殿から遥か遠くのバビロンの地に捕囚として連行
されてしまい、ケパル川のほとりで自分自身を発見することになったのです。
エゼキエル書1章の前半部分がそのように語っています。

  将来を夢見ていたエルサレム神殿での司祭としての職と地位を突然に奪い去られ、
先勝国の捕囚として、奴隷として、異国の地に自分自身を発見することになったので
す。  憤怒しても問題は大き過ぎて、彼独りではとうてい解決できなかったのです

★  激怒と絶望のどん底に落ち込んでしまっていたエゼキエル青年に、神は予想外の
ことを命じられました。  『上を見よ』ということです。  1章4節以降です。
  先日、「サタンは目を眩ませ、イェスは目をあけられる」と題した拙文を発表して
おきましたが、このエゼキエル書でも、神はエゼキエルに目を開いて上を見ることを
命じられています。  そして、そこにエゼキエルは想像もしなかった天の王座を一瞥
することができたのです。

  前述のバーン・アウト症候群に罹る多くの人々は、自分中心で物事を考えた上で、
自分の才能や自尊心で教会の仕事に取り組んでいるからではないのでしょうか?
  神と人とにお仕えさせて頂いているという発想が欠落しているからでしょう。
神の御業に恩寵によって参加させて頂いて居るという発想が欠落しているからです。

  人が己の智恵や能力にだけ頼っている限り、必ず躓きを招き、失望し、燃え尽きて
しまうのです。  月給取りのような感覚で、経営者としての態度で、ショーバイ人と
して伝道者業・牧師屋をやれば、必ず挫折するのは当たり前だと私は思います。

★  エゼキエルが上を向いて、天に居ますおん方の栄光の似姿のようなものを見せて
頂いてから、エゼキエルはひれ伏し、それまでに想像すらもできなかった使命が与え
られたことに気づいたのでした。  「燃え尽き症候群」どころではありません。

  ジョン・ニュートンの不朽の名作「Amazing Grace 驚くばかりの恩寵」の讚美詩を
貫くものは、一方的な神さまからの賜物です。  私たちがその恩寵に気づいたとき、
そこに用意されてあった、新しい人生が私たちを喜びと感動と感謝と希望の世界へと
導いてくれるのです。  希望の前には燃え尽きる必要など全くないのです。