雀蜂を眺めながら

★  「焼酎と味醂と酢と砂糖水をペット・ボトルに入れる」...?
今秋もベタニヤ・ホームの庭で、これらの液体を容れたペット・ボトルの罠で千匹を
遥かに越す雀蜂を捕獲しています。

  おもしろいように雀蜂が罠に入りますが、千匹ともなりますとむしろ不気味です。
大きなペット・ボトルの底からキャップのところまで雀蜂の死骸がギッシリと詰まっ
ています。  今秋もそのようなペット・ボトルが2本半あります。
  まむし酒を作っては希望者に売っている近所の坂本清利さんが、ぎっしり詰まった
雀蜂の死骸を見て、『薬にするからおくんねぇ~』とねらっています!?

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  今年もベタニヤ村に二つの雀蜂の巣があるのを発見しました。
地面の中に巣を作り始めたのは早期発見で何とか処置しましたが、高いところに設置
してあった大型野鳥用巣箱を利用して営巣を始めてしまった雀蜂の巣には手が届かず
そのままにしてあります。  毎年雀蜂との「平和的共存」?を迫られています。

★  雀蜂は、ほかの蜂類と同じく、せっせせっせと出稼ぎに巣から出て行きます。
そして獲物を捕らえると肉団子にして巣に持ち帰って行きます。  野鳥用水飲み場で
水を飲んで巣の中を冷やす仕事もするようです。

  雀蜂を観察していて思うことがあります。  巣は一種のエクレシアだということで
す。  彼らの巣は「呼び出された蜂どもの集会場・休息所」だということです。
  巣の中にいる女王蜂と無数の幼虫たちを養うために、働き蜂たちは巣を護り、巣の
中を清掃し、巣の中の温度と湿度を保ち、そして外に出て行って餌を確保して戻って
来るのです。  重たい餌を巣の中に降ろすと、再び軽い身で外に出て行くのです。

★  聖書は、例えば、コリント後書5章17節~20節で、私たち「キリストのもの」=
クリスチャンは、この世に対して「和解のつとめ」を託されていると語ります。

  テモテ後書2章15節や4章2節には、どのような状態にあっても、私たちには福音
を宣べ伝える使命と特権が託されていると語っています。

  主イェスがこの世を離れられる折に、ある意味で遺言のような命令を私たちに残さ
れています。  それを私たちはマタイ傳28章19節~20節で学びます。

  また、福音を語るということには、私たちの在り方が問われていると、私は聖書を
読んで学ぶのです。  クリスチャンの社会的特権と責務のことです。

  マタイ傳5章13節~16節に主イェスの言葉として明確に示されている「地塩世光」
のことです。  この地上に入っていって、この世の中にあって、そこでクリスチャン
としての責務と特権を発揮し、果たすようにと命じられています。

  どうもこの面で、多くの教会も、その伝道者も、教会指導者たちも、そして教会員
たちも、理解と意識が少ないようです。
  この世にありながら自分たち自身をこの世から隔離してしまって、自分たちだけが
楽しめる、安心できる居心地のよい蚕の繭のような同好会を築き上げてしまう傾向が
あるように思います。
  この世の中の痛みや悲しみには無関係で、自分たちだけの排他的な同友会を作って
しまうようです。  これは一種の「自己ゲットー化  ghetto」だと思っています。

★  しかしその一方で、ルカ傳10章38節~42節でイェスが注意を喚起されていること
は、社会的関与に深入りし過ぎて、静かに神の言葉に聞き入るということを怠っても
いけないということです。
  それは、同じ章の前半部に善きサマリヤ人の譬を置くことで、宗教儀式のみを通し
て神を礼拝しようとする余り、クリスチャンが病める者や弱者に仕えるという社会的
参与を疎かにしてはならない‥という教えとの対比で考える必要のあることです。

★  私たちが主の食卓、主の晩餐、パン裂きに、主ご自身のお招きによって、与る・
侍るということは、『主の死を示して、その来たり給うときにまで及ぶ』ことを誠実
に黙想するということではないかと思います。  (コリント前書11章26節)

  そこには、「すでに」という十字架のできごとと、「まだこれから」というイェス
の再臨の栄光との間に私たちが立たされている...ということを覚えさせるという意味
が秘められていると私は理解します。  いつも「終末というとき」に限りなく近づい
ている時点に私たちが立たされていることを私たちが強く意識するように...との神の
摂理が秘められていると私は覚えるのです。

  「いまこの現在」という時間はないのです。  「もうすでに」と「まだこれから」
との瞬間的な間に私たちは立たされているのです。  この瞬間的な、まばたきをする
ような瞬間が、あたかも永遠に不動・不流のように続くかのように誤解して、この世
の富みを蓄え、名誉と地位を維持しようなどとの考えは、主の食卓に侍るとき、永遠
の主の前に召し出され、招かれるとき、木端微塵に吹き飛ばされてしまうのです。

★  雀蜂は一心不乱に働いています。  それは「厳しい冬の先にあるもの」に対して
備えているのだと思います。  もちろん雀蜂はそのことを意識してはおりません。

  エクレシアという集合・集会場に集まる私たちキリストの者たちこそ、この世への
和解の使者として、雀蜂のように、与えられ託された目的のために、使命のために、
この世に在りながら、この世の者としてではなく、ただひたすらに「もうすでに」と
「まだこれから」とのあいだにある瞬間的なときの流れの中で、神と人とに仕え尽く
して、お召しの時に備えをしたいものだと願うのです。  如何でしょうか?