★ 1962年夏の不可解な交通事故に巻き込まれて左腎臓を失い、そのことでたくさん
の輸血を受け、その結果としてC型肝炎ウイルスをも輸入し、現在は肝硬変が進行中
です。 それで医者にかかる必要がありますが、この寒村僻地に良い医療機関がある
わけではありません。
敗戦後の北巨摩郡の無医村開拓地域のために医師としての使命を感じて定住された
小淵澤の中山正己医師、91歳の個人経営の小さな医院に週2回通って肝臓ウイルスの
増殖を抑制する消極的な治療方法の注射を受けています。 経験豊富な名医だと私は
確信し、かつまた、尊敬しています。
しかしここ数年間の内に多くの患者が、公が経営する大きな病院に移って行きました。
目先の、可視的面なものに気を奪われているからでしょう。 私は中山医師を信じてい
ます。 心から信じられない医師に自分の命を預けることはできません。
命にかかわることですから、信じるということは大切なことです。 ただ問題は、
医師が高齢のためにいつ閉院になるかも知れないという点でしょう。
★ 私どもが世田谷の母の自宅を売却して当地に移住して来たのが1985年でした。
四半世紀の家庭集会ということになります。 世田谷での家庭集会は22年ほど続いて
いました。 更にその前の家庭集会は葉山漁村で2年強ほどの短い時間でした。
これら48年にわたる3ヶ所での家庭集会にどれほどたくさんのかたがたが出席された
のか見当もつきません。 延べにすれば十余万人を遥かに越えるだろうかとも思います。
しかし「数」というものはしょせんどうでもよいことに属するものです。
むしろ紅茶や珈琲をおごるポットや食器類に感謝をしなければならないでしょう!
★ 問題は‥です。 それほど多くのかたがたが集会に参加して下さったのですが、
現在に到るまで、それら数多くのかたがたの中から、どれほどのかたがたが、私ども
のような欠けた二つの器を覚えて下さっており、ありのままの姿で受け入れて下さっ
ており、信じて下さっていらっしゃるのか‥ということだと思います。
お互いにどんなに遠く離れ離れになっていても、どれほどのかたがたが覚えていて
下さっているのか‥信じていてくださっているのか? そういうことだと思います。
★ 前置きが長くなり過ぎましたが、「信じる・信頼する」ということは、他者との
あいだで、極めて重要なことなのです。 人間関係の基礎を形成するものなのです。
相互信頼と尊敬と受け入れ合いがなければ、人間関係は成立しないのです。
そして、いったん壊れてしまった人間関係を修復するということは、ほとんど不可能
に近いというのが厳しい現実です。 信じていない人、尊敬していない人を頼ることは
不可能です。 たとえ表面上だけは微笑みながらつき合っているとしても...です。
★ 創世記32章22節~32節を読みますとヤコブが「あるひとりの人」と相撲をとったこと
が記されています。 私個人の見解ですので責任を持つことなどできませんが、
その「ある人」とは、神から派遣された天使ではないかと思います。 別の言い方を
すれば、ヤコブは神ご自身と相撲を取ったとも言えるのかも知れません。 けっこう
真剣な相撲であったようです。 28節は、ヤコブが神と人とに力を争って勝った‥と
記録しています。 「神と真剣に取っ組み合いの相撲を取って勝つた」のです。
★ ところで私たちは、ヤコブのように、神と面と向かって真剣に相撲をとっている
のでしょうか? そのような真剣さで神に接し、神を信頼し、神を信じているとでも
言えるのでしょうか? 確かに口先だけはそのようなことを言っているようですが‥
★ ルカ傳18章8節は実に厳しいことを書いて私たちに告げています。
『人の子(イェス自身のこと)が(再び)やって来るとき、地上に信仰が見られるで
あろうか?』 これはイェスの私たちに対するまことに怖ろしい呟きの質問です。
イェスが再臨される時がいつなのか、それは全く私たちにはわからないことです。
また、わからなくてもよいのです。 それは神の主権にかかわることです。
しかし、イェスが再臨されたとき、地上に神を信じる信仰者がいないかも知れない
という警告は、これは怖ろしいことです。 信じる者がいないかも知れない...とは、
どういうことを意味しているでしょうか? マタイ傳7章21節以下を思い出します。
『私に向かって「主よ、主よ」という者が、みんな天国に入るのではなく、ただ、
天にいます吾が父の御旨を行う者だけが入るのだ...』とイェスは警告されています。
★ 旧約聖書の一番最後にマラキ書という本があります。
その3章で、神を信じている...と自称している人々に対して、たとえば5節で、鋭い
警告が発せられています。
また8節~10節では、さらに具体的に、神を信じていると自称しながら、実際には
神を信じていない宗教人に対して、神自身が「俺を試してみるがよい!」と挑戦され
ています。 人々は、ほんとうは、それほどまでに、神を信じていないのです!
ヤコブの話を活用するならば、人々は神とまともに、真剣に、力を賭けて、相撲を
取っていないのです。 口先だけが「神を信じている」とうそぶいているのです。
『まぁまぁ、教会のこともほどほどに。 適当に‥』というのが本音なのです。
★ ヘブル書11章6節は、信仰がなければ神に喜ばれることはあり得ないと警告して
います。 アダムとエヴァは神と神の言葉を信じなくなった瞬間に堕落したのです。
罪に陥ったのです。
今年は、お互いに、まじめに神を信じ、真剣に神と相撲を取るような信仰を試して
みたいものです。 神と真剣に面と向かって相撲を取ってみてはどうでしょうか?
マラキ書3章10節が言うように、神を試してみるほどの真剣さを取り戻してみては
如何でしょうか? 『血を流すこともしないで、罪の赦しはあり得ない』とヘブル書
9章22節は言います。 年頭に当たり、これらのことを覚えたいものですね。
罪の赦しを感謝するというのであれば、少しは恩寵に応えるためにも、痛みを伴う
ほどの信仰の実践を試みてみては如何なものでしょうか? 神と相撲を取ってもよい
のではありませんか? もちろん、そのことで救われるというのではありませんが‥
の輸血を受け、その結果としてC型肝炎ウイルスをも輸入し、現在は肝硬変が進行中
です。 それで医者にかかる必要がありますが、この寒村僻地に良い医療機関がある
わけではありません。
敗戦後の北巨摩郡の無医村開拓地域のために医師としての使命を感じて定住された
小淵澤の中山正己医師、91歳の個人経営の小さな医院に週2回通って肝臓ウイルスの
増殖を抑制する消極的な治療方法の注射を受けています。 経験豊富な名医だと私は
確信し、かつまた、尊敬しています。
しかしここ数年間の内に多くの患者が、公が経営する大きな病院に移って行きました。
目先の、可視的面なものに気を奪われているからでしょう。 私は中山医師を信じてい
ます。 心から信じられない医師に自分の命を預けることはできません。
命にかかわることですから、信じるということは大切なことです。 ただ問題は、
医師が高齢のためにいつ閉院になるかも知れないという点でしょう。
★ 私どもが世田谷の母の自宅を売却して当地に移住して来たのが1985年でした。
四半世紀の家庭集会ということになります。 世田谷での家庭集会は22年ほど続いて
いました。 更にその前の家庭集会は葉山漁村で2年強ほどの短い時間でした。
これら48年にわたる3ヶ所での家庭集会にどれほどたくさんのかたがたが出席された
のか見当もつきません。 延べにすれば十余万人を遥かに越えるだろうかとも思います。
しかし「数」というものはしょせんどうでもよいことに属するものです。
むしろ紅茶や珈琲をおごるポットや食器類に感謝をしなければならないでしょう!
★ 問題は‥です。 それほど多くのかたがたが集会に参加して下さったのですが、
現在に到るまで、それら数多くのかたがたの中から、どれほどのかたがたが、私ども
のような欠けた二つの器を覚えて下さっており、ありのままの姿で受け入れて下さっ
ており、信じて下さっていらっしゃるのか‥ということだと思います。
お互いにどんなに遠く離れ離れになっていても、どれほどのかたがたが覚えていて
下さっているのか‥信じていてくださっているのか? そういうことだと思います。
★ 前置きが長くなり過ぎましたが、「信じる・信頼する」ということは、他者との
あいだで、極めて重要なことなのです。 人間関係の基礎を形成するものなのです。
相互信頼と尊敬と受け入れ合いがなければ、人間関係は成立しないのです。
そして、いったん壊れてしまった人間関係を修復するということは、ほとんど不可能
に近いというのが厳しい現実です。 信じていない人、尊敬していない人を頼ることは
不可能です。 たとえ表面上だけは微笑みながらつき合っているとしても...です。
★ 創世記32章22節~32節を読みますとヤコブが「あるひとりの人」と相撲をとったこと
が記されています。 私個人の見解ですので責任を持つことなどできませんが、
その「ある人」とは、神から派遣された天使ではないかと思います。 別の言い方を
すれば、ヤコブは神ご自身と相撲を取ったとも言えるのかも知れません。 けっこう
真剣な相撲であったようです。 28節は、ヤコブが神と人とに力を争って勝った‥と
記録しています。 「神と真剣に取っ組み合いの相撲を取って勝つた」のです。
★ ところで私たちは、ヤコブのように、神と面と向かって真剣に相撲をとっている
のでしょうか? そのような真剣さで神に接し、神を信頼し、神を信じているとでも
言えるのでしょうか? 確かに口先だけはそのようなことを言っているようですが‥
★ ルカ傳18章8節は実に厳しいことを書いて私たちに告げています。
『人の子(イェス自身のこと)が(再び)やって来るとき、地上に信仰が見られるで
あろうか?』 これはイェスの私たちに対するまことに怖ろしい呟きの質問です。
イェスが再臨される時がいつなのか、それは全く私たちにはわからないことです。
また、わからなくてもよいのです。 それは神の主権にかかわることです。
しかし、イェスが再臨されたとき、地上に神を信じる信仰者がいないかも知れない
という警告は、これは怖ろしいことです。 信じる者がいないかも知れない...とは、
どういうことを意味しているでしょうか? マタイ傳7章21節以下を思い出します。
『私に向かって「主よ、主よ」という者が、みんな天国に入るのではなく、ただ、
天にいます吾が父の御旨を行う者だけが入るのだ...』とイェスは警告されています。
★ 旧約聖書の一番最後にマラキ書という本があります。
その3章で、神を信じている...と自称している人々に対して、たとえば5節で、鋭い
警告が発せられています。
また8節~10節では、さらに具体的に、神を信じていると自称しながら、実際には
神を信じていない宗教人に対して、神自身が「俺を試してみるがよい!」と挑戦され
ています。 人々は、ほんとうは、それほどまでに、神を信じていないのです!
ヤコブの話を活用するならば、人々は神とまともに、真剣に、力を賭けて、相撲を
取っていないのです。 口先だけが「神を信じている」とうそぶいているのです。
『まぁまぁ、教会のこともほどほどに。 適当に‥』というのが本音なのです。
★ ヘブル書11章6節は、信仰がなければ神に喜ばれることはあり得ないと警告して
います。 アダムとエヴァは神と神の言葉を信じなくなった瞬間に堕落したのです。
罪に陥ったのです。
今年は、お互いに、まじめに神を信じ、真剣に神と相撲を取るような信仰を試して
みたいものです。 神と真剣に面と向かって相撲を取ってみてはどうでしょうか?
マラキ書3章10節が言うように、神を試してみるほどの真剣さを取り戻してみては
如何でしょうか? 『血を流すこともしないで、罪の赦しはあり得ない』とヘブル書
9章22節は言います。 年頭に当たり、これらのことを覚えたいものですね。
罪の赦しを感謝するというのであれば、少しは恩寵に応えるためにも、痛みを伴う
ほどの信仰の実践を試みてみては如何なものでしょうか? 神と相撲を取ってもよい
のではありませんか? もちろん、そのことで救われるというのではありませんが‥