復活否定のサドカイ派


★  私自身が私自身のこの地球惑星上で私に託された人生が終焉に向かいつつある事を意識し始めましたので、少しずつ所持品を手放すように努力し始めました。
  昨年秋には、所蔵していました聖書や讚美歌や教会史に関連する英文の資料を全て母校の一つであるペパダイン大学の教会史資料センターに寄贈しました。
  そのようなわけがありまして、「サドカイ人」という宗教グループの詳しい情報を提出することができません。  手持ちの日本語資料でご紹介いたします。

★  サドカイ人というのは、古代ユダヤ教内の一派のことです。  エルサレム神殿を中心とする、神殿での宗教行事を厳格に守る、いわば職業的宗教人のことだと理解してよいかと思います。  エルサレムの貴族祭司層とユダヤの地方貴族や地主によって構成されていた、極めて裕福な貴族階級、特権階級の人たちでありました。

  西暦70年にローマ軍によってエルサレムが破壊され陥落するまでは、ユダヤ教最高議会、すなわちサンヘドリンの中心的、多数派を占め、政治的、宗教的、社会的支配権を掌握していました。  ローマ軍の支配には不快感を抱いていましたが、ギリシャ文化、ヘレニズム文化の影響に対しては開放的であったと言われていますが、宗教的には極めて保守的な職業的宗教人層であったと考えられます。

  いずれまた考えなければならないことですが、パリサイ派という、もっと幅の広い層から成り立っている、聖書の口頭伝承の権威を肯定していた宗教層に対して、旧約聖書の最初の5書、すなわち、「モーセ五書」だけを正典としたのがサドカイ人たちでした。  パリサイ人たちは旧約の律法の研究と厳粛な遵守を主張していましたが、サドカイ人たちにとっては神殿と神殿儀式を守ることが最大の関心ごとでした。

  死者の復活も、天使の存在も、霊的な存在も、そのような信仰を、パリサイ人たちとは対照的に全面否定し、歴史や個人の人生に神や天使や霊が介入するということを否定していました。  保守的で富裕層に属する現実主義者であったと言えます。

  ソロモン時代の祭司ザドクからサドカイ人という名が派出したのではないかと考えられています。  列王紀上2章35節です。  使徒行伝23章8節にサドカイ人たちは復活、天使、霊などの存在を否定する人々であると使徒パウロが証言しています。

★  復活信仰も天使の存在も霊の存在をも否定するサドカイ人たちですが、どうしてそうなのだろうか?...という単純な疑問が湧いて来ます。

  サドカイ人たちというのは、強大な宗教権力集団の頂点に立っており、人々の生活のすべての面に到るまでを支配していた裕福な特権階級でした。  物質的に不自由なものはまったく無かった特権階級でした。  貧しい多くの人々を犠牲にして、悠々と生活を満喫していた権力者たちでした。  この世の中で欲しいものは何でも手に入れることができる、何ひとつ不自由のない、現世をとことん満喫している一握りの階級に属していた人々です。

  苦悩に満ちあふれたこの世からできるだけ早く脱出して、理想郷に到ること、復活して待望のメシアと共なる生活を渇望していた民衆とはまったく掛け離れた存在でした。  楽しい現世を満喫している者に、来世待望の願望などまったく不必要なことでした。  日々の生活に苦悩する庶民とはまったく別の次元に生きていたのです。

  高級自動車を運転し、高級腕時計をはめ、光熱費や通信費や税金の支払いから無縁な豪華な牧師館に住み、公費を使って海外視察名目で旅行もできる現在の宗教人たちに似ているところが多いと思います。  イェスが語った貧しい人々とはまったく無縁の存在でした。

  民の悩みの叫び声を聞く耳を持たず、群衆の悲しみと恨みに満ち溢れた絶望の声を代表して語ることなどまったくできない存在の宗教界の指導者と同じです。  社会の不義を問いただすことなどまったくできない自己中心的な職業的宗教人たちでした。

★  マタイ傳10章42節が語る「冷たい水一杯」ですらも飲めないで苦しみ悩んでいる人々を解放し、自由にし、来るべき神の国へと人々の目を向けさせる責務を果たそうとしない、富める職業的宗教人の存在とその悪を強く意識されていたイェスのことを思わずにはいられません。  現在の「教会」の多くはおかしいと思います。

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