ヨベルの年


★  このあいだから、イェスが生きておられた時代のことを、無責任極まることですが、何となく想像してみています。

  留学中の1950年代には、黙示録に書かれてある千年王国のことで散々にいろいろと教えられ、悩まされて来たことがありました。  紀元前1世紀から1世紀にかけて、確かにこの世の終わりを、千年王国待望信仰という考えで捉えることがユダヤ人社会では強かったようです。  この世の終わり=神の新しい秩序の確立、神の国の到来への期待信仰が強かったようです。  神による新しい秩序の到来を、イェスに重ね合せ、イェスの生涯をヨベルの年の始まり、解放の年の始まり、具現化と捉えていたのではないかと、教会史を学んで来た学徒の一人として、そのようなことをぼんやりと考え始めています。

  出エジプト記20章22節~23章33節や、詩篇68章5節~10節や、アモス書5章11節やヤコブ書5章4節~6節などを、これまた、焦点の定まらない朧な目で読んで見て、何となく理解しようと、無責任なことですが先週もそのように試みてみました。

  神さまのこと、イェスさまのこと、なぜ世に貧しい人、虐げられている人、弱い人たちが絶えないのだろうか?  どうして強い人、富める人、抑圧する人がいつもいるのだろうか?...などを、ぼんやりと考えてみました。

  人が「死ぬこと」は避けることができないが、「殺すこと」は避けられるはずだのに、どうして人も国も教会も、他者を殺すことを平気でやるのだろうか?...などとも考えてみました。  アメリカの保守的で原理主義的キリスト教会をも含んだことです。

  「殺す」ということは、鉄砲で相手の肉体を殺すだけではなく、言葉で、思い遣りの欠如で、相手を思いやる愛の不足が招く心の傷や存在の否定をも含んだことです。

  私も、親も、教会も、宗教人も、この罪からは自由ではあり得ないと思うのです。打ち付けた釘を抜くことができたとしても、釘の跡、古い錆びた傷跡は残るのです。日本のほとんどの人が、お互いに殺しあっているように思える時代に住んでいます。

  今の日本で、溢れ過ぎている物質、モノに取り囲まれているこの国は、実は精神的に極めて貧しい国だと思うのです。  巨大資本が国民を擂り鉢で擂り潰して国民から吸い取れる限りの富みと希望を吸い上げています。  永田町の政治屋も同じです。

  動物的な娯楽番組が多くなり、相撲が代表するようにスポーツ界も同じようです。この国が人類に正しい展望を与えることもできないし、自国の民に明るい希望の将来を与えることも最早できないのです。

  キリスト教も、仏教も、神道も、国民に何ら倫理的、道徳的、精神的な基準も希望も提供できないままで、死んだ儀式宗教に成り下がっていると考えているのです。

  明治維新以降、富国強兵論と脱亜入欧論でアジア諸国の人々と、自国の国民に多くの犠牲を強いてきた日本でしたが、今や追い抜かれる立場に転落しつつあるようで、これが国民に将来への失望感と不安感を与えているようです。  空虚感を満たすものが欠落したままのように思えます。

  このような世界の状態は、イェスが2千年前に御覧になった時と全く同じようだと理解しているのです。  「暗黒と死の陰とに住む者たち」だとルカ傳1章79節が描写している状態だと考えているのです。

  このような状態の私たちに対して、「罪の赦しの救い」が「神の深い憐れみの心によって」「天上からの日の光が私たちに一方的に臨み、希望のない私たちの足を平和の道へと導こう」とされているのだと、そのようにイェスによる解放の、ヨベルの歌をルカ傳1章77節~79節と4章16節~21節を読みながら、何かしら朧気ですが、私は感じ初めているのです。  主イェスが解放を高らかに告げて居られる2千年前の姿を、瞼の中にぼんやりとですが、見ることが出来るような気がしているのです。

  コリント地方の特産物の一つに、雲母、あるいは雲母片岩というのがありました。花崗岩の中に含まれている、はがれ易い、白雲母、黒雲母です。  マイカとも呼ばれていました。  耐火性が強いのでアラジンという石油ストーブの覗窓にも用いられていました。  電気の絶縁にも用いられていました。  2千年前のコリント地方では、雲母を使って、今わたしたちが使っている窓ガラスの代わりに用いていたようです。

  それでコリント前書13章12節では、丸い銅版を用いていた当時の鏡に写る朧気な自分の姿を、雲母の窓を通して外部を見ていた時にぼんやりと見えていた外の様子のように例えて語っているようです。

  先々週と先週、私はイェスさまのことや、2千年も前にローマの占領下にあった、そして神殿宗教を仕切る職業的宗教人たちが牛耳っていた当時の人々、圧倒的多数の奴隷や半奴隷を含む貧しく虐げられていた人々、希望なく何とかその日その日を生きていた人々のことを、ぼんやりと、朧気に考えていました。

  救われなければならなかった人々のことです。そしてそれはまさに現在の私たちの姿でもあるのです。  政治屋と巨大資本家が横行し、国を支配し、私たち国民に希望を与えることができないようにしているのです。
  結婚式専門のキリスト教、葬式専門の仏教、新築工事現場で祝詞を挙げ、お守りを販売するだけの神道寺院...腐り切った精神界です。  宗教にも救いがないのです!

  ヨベルを告げるイェスが今こそ必要とされているのです。聖書を読み、聖書が示す神の国、解放の状態を私たちは洞察すべきでしょう。

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