ガラテヤ書6章が語る三つの十字架


★  神学生なら必ず学ぶ宗教改革者にドイツのマルティン・ルター(Martin Luther) がいます。  1483年~1522年を生きた人です。  ローマを訪れて教皇制度の不合理さを知り、このことからローマ教会に対する一連の疑問が青年ルターの心に湧いて来ました。  1517年にはローマ教会の免罪符乱売に憤慨し抗議文95ケ条を公表して教皇の怒りを招き破門されました。  ここから宗教改革への道が開かれました。
それはローマ教会が支配していた当時の欧州世界を根底から揺さぶる発想でした。
  「人が義とされるのは行為に依らず、ただ信仰に依るのみ...」と説きました。信仰義認を掲げるルーテル教会の誕生です。  まことにアーメン(=真実)です!

★  少し遅れて、フランスにも宗教改革者が出ました。
「ただ神にのみ栄光を! Deo soli gloria !」と唱えて、神の絶対的主権を強調した宗教改革者カルヴァン(Jean Calvin 1509~1564)です。
  ルター同様に、当時の欧州を激しく揺さぶっただけでなく、新世界アメリカにまでもその影響は及びました。  そしてやがて日本にもその余波が襲って来ました。

  彼の思想を継承する長老教会派が圧倒的に強い韓国では、無数の教会堂が塔の高さを競っています。  しかし、自分たちだけを世俗から隔離し、ゲットー化し自己満足に耽っています。  牧師サマの踏ん反り返る姿勢に多くの韓国人が反発しています。

★  これらのことで私が何か物を申す...ということではありません。
しかし、ルターもカルヴァンも、当時の欧州世界を支配していたローマ教会に対する動きでした。  そしてそのこととの関連で、人と神との関係に関する論争であったと私は考えます。  人と人との関係を論じたものではなかったと私は理解しています。

★  この激動し激変するこん日の世界に在って、そろそろ「人と人との関係」を教会が語り始めてよいのではないか...と、私はそのように考え始めたのです。

  ルターもカルヴァンも、ローマ教会を意識して、神と人との関係を、信仰を通して考えたのではないのかと、私なりに理解しています。  ローマ教会が説く行為義認ではなく、信仰義認を主張し、ローマ教皇に対してではなく、神の栄光を求めたものと理解しています。

  しかし、北東アジアに住む一人のイェス・キリストの弟子としての私は、アジアの教会が、ルターやカルヴァンが主張した彼らの信仰理解に加えて、そろそろアジアという生活の場で考える、「イェスの福音を中心軸とした自己と他者との関係を」模索し始めても良いのではないか?...と、1960年以降、そのように考え始めたのです。

★  そのことをガラテヤ書6章は三つの十字架ということで語っていると思います。
「隣人の十字架」と、「自分の十字架」と、共に担うべき「イェスの十字架」です。

  ルターの信仰理解も大切です。  カルヴァンの信仰理解も大切です。
しかし、アジア人の一人である私は、これらの偉人が語ったことと共に、自分自身がアジアで学んだことを、イェスに対する自分自身の信仰告白の中に、今後どのように組み入れてゆけばよいのか...、そのことが問われていると考え始めました。

  貧冨の差が激しくなり、富める者がそうでない者を差別し、搾取しているこん日、イェス・キリストの教会までが強者の側に立っている現在の世界情勢の中にあって、イェスとその福音を、持たざる者、弱き者の側にお招きして、そこからイェスの福音の意味を学び直し、学んだことを実践する時が来ているのではないか...と、そのように考え始めているのです。  これは私がアジアのスラムから学んだことです。

  東洋人がもっともっと聖書を読み、欧米の教会が何と言っているのかではなくて、主イェスが乗られた驢馬の速度で、4キロを1時間の速度で、アジアの人々にわかるようにイェスの福音を語り、その福音の内容を具体的に説明するために、福音の内容を実践し始めてもよい時期に来ているはずだと考えているのです。

  「脱亜入欧」を福沢諭吉は主張したようですが、「脱欧米神学・入亜細亜神学」という視点での福音理解があってもよいのではないかと...、そのように思うのです。

  聖書が語ることを語り、聖書が命じることを喜んで日常の生活の場で、他者と共に体験するということです。  特に弱者の側に立って...です。  如何でしょうか?

  北朝鮮の裸の王様が再び力んで北東亜細亜に緊張を招いています。
これに対して韓国の教会は無力です。  日本の教会も完全に無力に見えます。「地塩世光」で「平和ならしめる者」である筈の私たちイェス・キリストの弟子たちの在り方を、主イェスはどのように御覧になっているのでしょうか?
  天に在る御心を地にも行わせ賜えと、ただただ主の憐れみを祈るのみです。