★ 連休の終わりのほうで、長坂インター前のスーパー・マーケットに79歳の老人が運転する自動車が運転を誤り飛び込んだと、全国版テレビ・ニュースが報じました。
オートマッチック車でした。 決してひとごとではないと私は報道を見ていました。
★ 予期せぬその事故が起こった数日前に、その同じスーパー・マーケットの中で、私はまったく想像もしていなかった「あるもの」を目撃しました。
生後間もないはずの嬰児の手でした。 何か事情があって、そのような赤ちゃんを抱えて買い物に連れ出さなければならない事情が母親にあったものだろうと推測しました。 そして生まれたばっかりの、そんなにも幼い赤ちゃんを、人混みの中に連れ出しても大丈夫なのだろうか?と心配もしました。
赤ちゃんの小さな、美しい色をした可愛い手と指が、ときどき動いていました。
最近、そのような、生まれたばかりの赤ちゃんの美しい手と五本の指を、身近で目撃したことがなかった私は、大きな感動に襲われました。 創造主のすばらしさを改めて示されたと、感激しながら赤ちゃんの手を眺めていました。 そのほかの身体全身はすっぽりと覆われていました。 手だけが覆い物から飛び出していました。 そのことで、よけいに赤ちゃんの手だけが強烈な印象を私に与えたものと思います。
赤ちゃんのこれからの長い人生が幸多きものであれかし...と祈りました。
★ 私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、商業主義にすっかり毒されてしてしまったクリスマスという季節を一年に一回迎えます。
きらきら輝く金色や銀色の星だの、白い布をまとった天使たちだの、飼葉桶の中に置かれているイェスの人形だの、あるいはクリスマス・ケーキだの、商業化され過ぎた騒々しいクリスマス・ソングなどに慣れてしまっていますが、赤ん坊イェスの手と五本指のことをじっくり考察したことがあるのでしょうか?
★ 讚美歌 121番は日本人の作詞・作曲した素晴らしい讚美歌です。
「馬槽の中に生まれ、匠の家で成長され、貧困と苦悩をことごとく味わわれた人」と紹介しています。 木槌や金槌、鑿や鉋や鋸を手に労働の厳しさを体験され、底辺層に住む仲間とその家族の生きる苦しみを共有され、身売りされて行く女性たちの涙を目撃され、周囲の人々のうごめきの声のなかに人間の生老病死を御覧になったものと思います。 そのたびにイェスの両手はどのように動いたのでしょうか?
病める者の肩を優しく触れて癒しを祈られたときの両手... 盲人の目に指を触れて癒された時の両手... 幼児をその両手で抱き上げて祝福され、幼児のようでなければ神の国に入ることができないと人々を諭された時の両手... 石打の刑にふさわしい者としてイェスの前に引きずり出された婦人の肩にその手を優しく置いて赦し励まされたイェスの両手...
パンを裂き葡萄液を取り上げて祈り、弟子たちに手渡し、仕える者となるようにと教えられた時のイェスの両手... 聖なる神の宮とされていた場所で宗教を食い物にしていた者たちの屋台をひっくり返して怒られた時の両手... 波の上をイェスに向かって歩こうと試みたペテロに差し延べられた両手... 剣を収めよとペテロに命じられた時のイェスの右手... 山上の垂訓といわれている王国憲法紹介の折りに際し、天を仰いでさし広げられた両手... ゲッセマネで血の汗を流して祈られた時のイェスの
両手... サマリヤの女から柄杓で水を受け取られた時の両手...
ベタニアでマルタを諭された時の手... エルサレムを養う者がいないと涙された時の手... 十字架のできごとですっかり失望して故郷を目指しエマオの道を歩んでいた二人の弟子に食事を勧められた時のイェスの祈りの両手... そしてパンを裂き、二人に手渡された時の両手... 疑い深いトマスに指し出された時のイェスの両手...
四福音書はイェスの両手と、さまざまな動きを暗示する記録で満ち溢れています。
イェスの両手とその動きを、皆さんもそれぞれ想像なさってみてください。
★ そしてそのイェスが、十字架の丘に到るドロローサの道を、重い十字架を担いで歩まれたことを聖書は語ります。
その道の終点であるゴルゴタの丘の上に立てられた十字架に、ご自身の両手を差しのべ、釘付けされ、私たちの罪の贖いのために命を捧げてくださったのです。
イェスがこの地上で生きられた33年のあいだにイェスの両手がどのように動いたのであろうかと想像することが必要なように思われます。
イェスの両手のさまざまな動きは、イェスの私たちへの愛を示していると思います。
★ 釘穴の開いたままの、血潮したたるイェスの広げられた両手が、今朝も私たちに向かって広げられています。 主の食卓への招きの両手です。 感謝なことです。