禿げ頭と嘲ったが、助かった子供のこと


★  列王紀下2章23節~24節を特別な注意を払って読む人は少ないと思います。
実は、私もそういう類タグイ の一人ですので、どうぞご安心ください。同じ章の12節では豫言者エリヤがつむじ風に乗って天に昇っていった劇的なことを語っています。  それを目撃したのがエリヤの愛弟子エリシャでした。
  (尚、エリヤ=「エホヴァは神」の意で、エリシャ=「エホヴァは救い」の意)

★  愛師エリヤ昇天の劇的奇蹟を目撃し、その興奮がさめやらぬうちに、エリシャが旅を続けたことを同じ章は語っています。  流産を招くほど水質の悪い村では、人々の願いを聞いて神に祈り、安心できる良い水に変えたという話も記録されています。

  悪水が出る水源を良質の水源に変えたエリシャがベテルに向かって旅を続けます。
その途中でいたずら盛りの多くの子供たちと出会います。  つまり悪ガキどもです。

  悪餓鬼どもはエリシャの禿げ頭を目撃し、エリシャに向けて大声で罵詈雑言を投げかけました。  相当に酷い悪たれ口を叩いたのでしょう。  豫言者エリシャの怒りを招くことになりました。  怒ったというよりもたしなめたという程度でしょうか?
  エリシャがほんとうに怒ったとするならば、少し大人げないようにも思います。しかし、私がこの箇所を執筆したわけではありませんので何とも言えません。

  怒ったエリシャが、「主の名をもって彼らを呪った」ところ、2頭の雌熊が出現して、子供らの「うち」の42名を裂き殺したと記録されています。  「うち」ですからもっとたくさんの悪ガキどもがエリシャに向かって悪たれをついたことになります。

★  熊に襲われて死んだ42名の子供以外に、助かった子供たちが何人いたのか、聖書は何も語っていません。  どうして助かったのか‥それも語っていません。

  悪ガキという点では、私もきっとそういう一人であったのだろうと考えます。子供というものは、だいたい同じようなことを考え、同じようなことをするものだと思います。  それが子供というものでしょう。

  レビ記19章32節に書いてありますように、老人を敬うということは、いつの時代においても、どこの国においても、同じように尊ばれてきた良い風習です。

  しかし、実際にはそのようなことが守られているとは限りません。わが国には「敬老の日」という祝日がありますが、後期高齢者、末期高齢者、弱者にとって住みにくい国です。  為政者にそのような発想が欠落しているからです。
  電車やバスの中で年長者に席を譲るという発想が欠落している若者が主流を占めています。  判断力が低下した老人を騙す「オレオレ詐欺」があとを絶ちません。
  道を歩いている婦女子や老婆を襲うひったくり事件もあちこちでしばしば起こっています。  私たちが住む八ヶ嶽南麓の寒村僻地で高齢者が生きることは困難です。

  韓国でも、少し前までは、年長者の前で酒を嗜み煙草を吸うということを、若者は控えていたように思いますが、現在の韓国社会では、そのような敬老精神が衰えつつあるように思います。

★    髪の毛が薄くなった神の人エリシャを嘲笑して熊に襲われた子供たち42名のほかに、何人の子供がその場にいたのか、なぜ彼らが赦されて助かったのか‥聖書は何も語っていません。

  詩篇25編7節には、若いときに、若さのゆえに、いくつかの大きな罪を犯して悔いたダビデ王の告白のことばが記されています。
  『私の若い時の罪と咎を、あなたの恵みと慈しみのゆえに、主よ、どうか思い出さないでくださいませ‥』とあります。

  雌熊2頭に襲われて裂き殺された42名の悪ガキども以外に、何人の子供たちが生きのびたのか、ほんとうのことはわかりませんが、神さまのダビデ王に対するご計画があったのと同じように、私たちに神さまの恩寵があったように、神さまの豊かな恩寵が注がれていたものと考えます。  そうでなければ私たちは今ここにいないのです。

★  ユダ書という短い書簡が新約聖書の終わりの黙示録のすぐ前にあります。
ほとんどの人にとって珍しい箇所だと思います。  少なくとも3節~13節をいくどか熟読してみてください。  12節~13節はマタイ傳7章15節~23節を彷彿させます。

  『彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して自分の腹を肥やしている。  彼らは、いわば、風に吹き回される水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、自分の恥を泡にして出す海の荒波、さまよう星である。  彼らには真っ暗な闇が永久に用意されている』  ユダ書12節~13節
  私たちが住んでいる今の時代にも、私たちの教派にも、私たちの小さなエクレシアにも当てはまる警告のように私には思えます。

  熊に噛み殺された42名の子供のほかにいた、助かった子供と同じように、神さまの一方的な恩寵によって救われ、今を生かされている者たちにとって、私たちが何らかの理由で生かされていることを改めて思い出し、罪咎を主の食卓で悔い改め、余生を神さまのご用のために、み栄えのために捧げ抜きたいものだと、そう祈るのです。