★ ルカ傳2章13節~14節には、突然一方的に天からおびただしい天の軍勢が出現したことと、あまたの御使たちと共に、飼葉桶の中に眠る嬰児の誕生を誉め讚えた...と記されています。
そのこととは対照的に、地の上では、暗黒と孤独と寒さに耐えながら羊の番をしていた羊飼いたちに神の御使が、これも突然一方的に現れて、大きな喜びを伝えた...と書かれています。
共通していることは、「天から地に」ということと、「突然一方的に」ということと、「大いなる喜びと、栄光と、平安」が与えられたといいうことです。
★ これと同じことを、ヨハネ傳1章1節~18節で、ヨハネはヨハネらしい説明方法で語っています。 神である言葉が私たちの間に宿ったことと、父なる神の独り子の栄光がこの世に現れた...と語っています。 言葉は神であり、私たちの生命であり、私たちの栄光である...と説明しているのです。
これらに共通していることは、「大いなる喜び、栄光、平安、生命」が、一方的に天から地に住む者たちに恩寵として、神の時が成熟したときに与えられたということです。
★ 創世記の初めの3章にわたって、私たちに理解できるような方法として、神の国を構成する基本的な描写がなされています。
エデンの園というものが、神の御旨と愛と義が支配する状態なり、神の御旨が及ぶ範囲というものを、私たちにわかり易く説明しようとしているのでしょう。
創造主なる神と創られた人が共に穏やかに共に住んでおり、罪がまったくない状態に居ることを描写しています。 別の言葉を借りれば、天の国、神の国という状態を説明していると思います。
★ エデンの園の中で、たったひとつのことを除いて、何をしても全く自由であったアダムが、神のことばに逆らって善悪を知る樹の実を口にしたことで、神との人格的な信望愛の関係が根本的に崩れ去ったことを、罪というかたちで創世記は語っています。 人は、神なく、信ずるものなく、希望なく、愛なく、罪のなかにあるのです。
★ 壊れ去った神と人との関係は、神のからの一方的な恩寵によって、赦しによってのみ復元できるのです。 そのために、神が定められた神の時が来た時、ベツレヘムにあまたの天の軍勢が現れ、天使の讚美の歌声と共に、神からの栄光と平安と生命と喜びが与えられたのです。
これらはすべて地上で人が生み出すことができないものなのです。
すべてが天で用意され、すべが天から地の私たちにもたらされた祝福なのです。
★主イェスが、マタイ傳6章10節とルカ傳11章2節で私たちに対して祈りの基本的な要素を示されました。 いわゆる「主の祈り」と私たちが呼んでいる祈りです。
すでに前述のように、おびただしい天の軍勢によって、天の栄光と平安が私たちに与えられた、与えられている...と書きました。 主イェスが「主の祈り」の中で指摘なさったことは、天の大いなる喜びが人々の心の中に来るように...ということです。
★ 天に「大いなる喜び」がなければ地にその喜びは伝えられることはありません。天に信望愛がなければ、平安がなければ、生命がなければ、地にそれらが来るはずがありません。 天の国にそれらがあるので地に住む私たちは求めることができます。
黙示録12章12節と18章20節は、天には大いなる喜びがあることを語っています。嬰児イェスが誕生なさった夜、天から遣わされたあまたの天の軍勢は、その大いなる喜びが私たちに与えられたことを語ったのです。 この喜びをこの地の上で人が作り出すことはできないのです。 それは一方的に神の方から恩寵として与えられるものです。 この地上の快楽が喜びを生み出すことはできないのです。 天のものです。
★ ピリピ書は、この天からの「大いなる喜び」について語っています。
短い書です。 いくどか、声を出して、熟読なさることをお勧め致します。とりわけ4章4節~7節を暗唱なさることをお勧めします。
★ ルカ傳17章21節は、神の国が「すでに、私たちの間にある」と語っています。神の国とは、魂がこの世を離れてから行く「場所」では必ずしもないのです。