★ マタイ傳6章9節に『御国を来たらせ給へ』という主の祈りがあります。
御国が来ていない‥という告白と御国を恋い慕う切望でもありますし、御国を何処に来たらせるのか‥現在の自分の心の中に御国を迎え入れられるのか‥という問いかけでもありましょう。 いろいろと考えさせられる「主の祈り」の一部です。
★ すでに週報で書いたと記憶していますが、昨年晩秋にソウル歴史博物館で2回目の特別写真展が開催されました。
そこで、長い韓国とのお付き合いの中で、初めてキリスト教会やクリスチャン以外の、十分な常識と教養のある韓国人たちと親しく接することができました。
嘗ての清渓川(チョンゲチョン) スラムを追い出された人々の多くが現在でも厳しい生活を強いられている城南市(ソンナムシ) 一帯では、特別写真展会場となった博物館での開幕式とはまったく違った底辺層の韓国人肉体労働者たちと接することもできました。
短期間ではありましたが、韓国人の日本と日本人に対する本音と建前を充分に察知し、理解するのに役立った、実りの多い訪韓でした。 多くの韓国人の日本と日本人に対する根強い、根深い、激しい拒絶感、厳しい憎悪感を改めて体験できました。
1ヶ月にわたってソウル歴史博物館で開催された特別写真展を見に訪れた韓国人の多くが、私がソウル市に贈呈した数千駒のフィルムとカラー・スライドの中から選び出された多数の写真を見て衝撃を受けたようです。 三大テレビ局が全国に報道したこともあって大勢の人々が博物館を訪れた‥と、学芸員が報告してくださいました。
現在の多くの韓国市民は、自分の国に30年~40年前に酷いスラムがソウル中心地に存在していたことすら知らなかったということと、そこで無名の日本人福音伝道者が奉仕していたということを知って、二重の衝撃を受けたようです。
★ 今回の「外国人が見た嘗てのソウル回想」と題した写真展の他に2004年11月に同じソウル市の清渓川文化会館で、当時の市長で現大統領李明博(リ・ミョンパク) 氏の招待を受けた私ども夫婦が最初の写真展開幕式に出席したことがあります。
私の挨拶内容が、清渓川復元公約を果たして市長に当選した李明博氏の期待に必ずしも添わなかったためだったのか、派手な国内向け宣伝は控えられたようでした。
しかし、この時の開幕式と写真展そのものと、その時に発行された第1回写真集の存在を知っていた一人の新聞記者が、今回の特別写真展をきっかけに、私ども夫婦を取材するために来岳され、昨年の国民日報紙のクリスマス特集号で紹介されました。
国民日報社というのは、ソウルの中心地にある汝矣島(ヨイド) に荘厳な教会堂を有する純福音教会(趙yonggi牧師)母体の超保守的なキリスト教の日刊紙で読者層は広いそうです。 ただし、私個人としては純福音教会が唱える聖書理解・信仰理解に賛同している訳ではありません。 多くの疑問を抱いたままでいます。
★ 無名の日本人福音伝道者が、朴正煕パッチョンヒ軍事独裁大統領時代に、ソウル市内のスラムで奉仕をしていた...ということで、記者や新聞社の都合もあって、誇大表現や誤解もありますが、記事を読んだ韓国人の多くから新聞社に問いかけがあったそうです。 新聞社の規制にもかかわらず、何人かの読者がどのようにして入手されたのか不明ですが、韓国式の暖かい、過大な感謝の言葉や、肌着の贈物を頂きました。
これらの連絡文にも、日本と日本人に対する深い疑心と憎悪心を感じることができます。 そこには癒され得ることがないように思える断絶の壁を感じます。
豊臣秀吉による朝鮮侵略を契機とする過去5百年に渡る二国間の不幸な歴史過程、国籍・国境・文化的背景の違い・価値感覚の違い・民族性の違い...そして聖書理解や信仰理解の違い‥、いろいろと解決不可能に思える問題が堆積・山積しています。
★ 少なくとも日本の教会は、まず自国が侵した国家的犯罪に対する負い目の理解と被害者への謝罪を真剣に学ぶ必要があります。 西獨逸のワイツゼッカーがたくさん必要です。
それと同時に、韓国教会は、「主の祈り」の赦しの部分を真剣に学び、十字架の上で主イェスが示された赦しと和解を学び、実践する必要があります。 私たちの国籍は、この世にあるのではなく、天にあると教えているピリピ書3章20節を初めとし、使徒パウロが説いている十字架のイェス・キリストに在って一つとなり、一つの教会を建てるということを学ぶ必要があると、私は確信しています。
豪勢な教会堂を建設したり、大きな信者数を誇ることではなく、赦しと和解を実践する教会に韓国教会は育つ必要があると私は確信し、そうあるように祈っています。
国籍、国境、政治...そのような地上的な、どうでもよいようなものに私たちが支配されている限り、十字架のイェスの恩寵の豊かさを体験することはできないと考えています。 この世に属している憎しみから私たちは解放される必要があるのです。
『御名が崇められ、御国が来たり、御旨が為されるように』祈りたいものです。