★ 現在では死語か差別用語に近い感覚の言葉で、私が幼いころ京都でよく耳にした
語彙のなかに、御薦(オコモ) というのがありました。 薦被り‥から、乞食という意味
でした。 露骨に乞食とは言わずに、お乞食さん‥と祖母や叔母は言っていました。
そして、当時、私は幼かったのですが、たくさんのお乞食さん、御薦さんを京都の
街角で目撃したものでした。 修業をする托鉢坊や虚無僧(コモソウ)=薦僧(コモソウ)のこと
も、確か御薦さんと呼んでいたように記憶しています。 物乞いをしていたからなの
でしょうか... 道端に座り込んで物乞いをしている人は多かったように思います。
敗戦後は、白衣をまとった傷痍軍人が街角や電車の中で募金を願っていました。
現在は、そのような形でのお乞食さんを見なくなりましたが、ホームレスという形を
取った社会現象が、主として大都会で深刻な社会・政治問題になっています。
朴正煕パッチョンヒ軍事独裁大統領時代のソウル市内や清渓川スラム周辺で乞食をする
人を見かけたことはありませんでした。 しかしスラムそのものが一種の乞食大集団
であったかと思います。 お乞食さん、御薦(オコモ) さんの話はこれで終わります。
★ それではイェスの時代のエルサレム市内はどうだったのでしょうか?
まあ、ある意味で、ローマ帝国の広大な領土そのものが、ローマという都市を中心に
した、お乞食さんの回遊街道そのものであったと言えるでしょう。
巨大な水族館の水槽の中をさまざまな種類の無数の魚たちが、同じ方向に向かって
回遊し続けているように、ローマ帝国領土内を、無数の貧しい人々や兵士が歩き回っ
ていたようです。
そのように、ローマ帝国領土内を当てもなく彷徨い歩く極貧者たちの民族の大移動
の流れに乗ることすらもできなかった人々は、結局のところ大都会の城壁の外側で、
城内へと通じる道路の両端にしゃがみこんで、城内に用事のある人々を相手に、城門
のあたりで物乞いをする以外に生きる方法がなかったのです。
視力の不自由な人、聴力に問題があった人、歩行困難な人、手足を失った人、酷い
皮膚病を患っていた人... これらの人々は帝国内を彷徨い歩いてその日の糧を何とか
得ようとすることもできなかった人々です。 生きたまま死んでいた人々であったの
です。 社会の癌、社会の厄介者、招かざる人たちであったのです。
★ マタイ傳11章4節~5節は、そのような人々に対して、この世の中でいと小さき
者たちに対して、主イェスの福音がすでに宣べられていた‥と語っています。
10章42節もそのことを肯定していますし、25章の40節もそのことを確認しています。
これらの人々は、この世で一人の人間として顧みられることがないのです。
彼らの心の奥底からの叫び声が聞かれるということはあり得ないのです。
これらの人々に対して、ひとり一人の人間として、人として当たり前の声をかけて
くれる人もいないのです。 自分の存在が完全に無視されたままの人々でした。
完全に生きたままで暗黒の世界、死の世界に住まわせられている人々なのです。
ルカ傳1章79節が言う、『暗黒と死の陰に住む者たち』なのです。
そして、彼らの多くは、自らの意志や希望でそうなったわけではありませんでした。
★ このような社会の不条理の中で、生きることの極限にまで追いやられていた人に
ヨブという人がいました。
誰にもわかってもらえない苦痛、誰にも聞いてもらえない心の奥底からの叫び声、
誰にぶつけてよいのかわからない心の痛みを、当時としては極めて高価であった筈の
羊皮紙なりパピルスに書き留めておきたい!...と願ったようです。
しかし、羊皮紙やパピルスでは燃えたり、破けたり、変色したりする可能性がある
から、むしろ岩石に鉛で自分の心の底からの叫びを書き記すか、それとも鉄筆か鉄斧
で岩石に刻みつけて残したい!‥とヨブは絶叫しています。 19章22節~23節です。
裕福であったヨブは、前述のマタイ傳11章が語る、城門傍に当てもなく座り込んで
いた人々と同じほど苦しい目に遭遇していたのです。 ヨブの叫びは、エルサレルム
城門脇の人々の叫び声でもあったのです。
★ このような不条理な状態に置かれている人々というのは、現在でもこの世に中に
数限りなく存在しているのです。 これは、アダムとエヴァが理想郷であったエデン
の園で罪を犯したのち、こん日まで続いている、罪が生み出した結果なのです。
この罪の世の中に在って、私たちは、今にも折れてしまいそうな弱々しい、傷つい
た一本の蘆、ほの暗くて、今にも吹き消されてしまいそうな燈芯にしか過ぎない存在
なのです。 そのようにイザヤ書42節3節は説明しているのです。
このように、いと小さき者、いと弱き者は、悲しみの中に沈む者でもあるのです。
悲しみと溜め息の中に生きている存在です。 悲しみの人たちなのです。
★ ところが、聖書は、ほんとうの『悲しみの人』のことを語っているのです。
イザヤ書53章4節です。 イザヤ書53章全体は、私たち人間の罪のために、人類に代
わって苦悩するために生まれて来た救い主、メサイヤの生涯を豫言しているのです。
悲しみの人であり、人々から侮辱され、人に捨てられ、病を知っていた人でした。
人々から打たれ、屠殺場に曳かれて行く羊のように黙して口を開くことをしなかった
人でした。 エルサレム城門の傍で物乞いをしていた乞食同然の状態です。
★ 神は、この十字架のイェスを神の御子とされ、私たちの救い主とされたのです。
このイェス以外に、天下廣しと言えども、私たちを救い得るお方はないのです。
エルサレム城門脇で、ひたすらに救われること、聞かれること、目を留めて貰える
ことを待ち望んでいた、悲しみの人、お乞食さん、御薦さんというのは、実は、この
私のことであり、みなさんのことであったのです。 城内の、良く出来る人、偉い人
ではなかったのです。 イェスの福音は、私たちのためであるのです。
一方的な恩寵によって救いを得た私たちは、このイェスに対して最後まで忠実な僕
でありたいと願うのです。 なぜならイェス以外に私を救い得る人はいないのです。