★ 先週末から今週初めにかけて、中国や韓国など北東アジアでは、旧暦の正月でし
た。 私が幼かったころ、農業に従事していた人たちの間で、まだ旧暦で生きていた
人々が存在していたように記憶していますが、こん日のわが国のカレンダーからは、
京都を除いて、旧暦は姿を消しました。 旧暦のことを太陰太陽歴と明治維新前には
呼んでいたと思います。 1872年(明治5年)12月3日を新暦の明治6年1月1日と
しました。日本で旧暦がすたれたのも脱亜入欧という風潮があったのでしょう。
★ 一方、旧暦が生きている韓国ではお正月、民族の大移動がありました。
アメリカの感謝祭の週末のように、人々は実家に戻り、大勢の人々が集まって正月を
祝ったのです。 子供たちは大人から貰えるお年玉を当てにしていたようです。
『ハラボジ(お爺さん)、お年玉を頂戴...』と冗談を書いてきたソウルの寡婦もい
ました。 そこで『日本では旧正月を祝う習慣がない』と韓国の友人たちに伝えます
と、『初めて知った‥驚いた‥』ということでした。 それでも少額のお年玉を寡婦
に送りましたら、『これで一生涯食べていける!』‥と、返事が来ました。
★ そこで思ったことですが、ひとつの文化圏・宗教圏で大切にしている祝祭日も、
他の文化圏、宗教圏に生きる者にとって、何の変哲もない、まったく無関係な他国の
祝祭日であるということです。
祝祭日とは、だいたいにおいて、そういうたぐいのものです。 たとえその祝祭日
に納得できなくても、それはそれで尊重して、理解してつき合うしかありません。
このことを別の角度から考えてみますと、その人にとって、その地域に住む人々に
とって、その特定の宗教行事や文化背景に固執している人々にとって、その祝祭日が
どんなに重要なものであったとしても、そうでない国や地域の人々にとっては、その
ような祝祭日や飾り物やそのための特別な食物は、「どうでもよいこと」なのです。
全く無意味な、無関係な、相対的なものなのです。 そのことに生命をかける必要
などないのです。 たくさんのオカネと時間とエネルギーを注ぎ込む必要の全くない
ものだ‥ということなのです。 教会も自称クリスチャンも気をつけたいものです。
★ 使徒パウロはロマ書14章で、信仰の弱い人々が、周囲の文化的・宗教的背景から
来る、イェス・キリストを信じるという基本的な信仰理解と関係のない、伝統に支配
され、特定の食物を食べる‥、食べない‥とか、特定の日を重んじる‥、無視する‥
とか、見解の違いが論争を招いていたことに言及しています。
いろいろな文化的、地理的背景の違いや、多種雑多な偶像諸宗教の伝統が混在して
いた国際都市ローマに住んでいたクリスチャンたちに手紙を書いたのです。 信仰の
弱い人を受け入れるようにという配慮が背後にあります。
★ ところが、ガラテヤ書1章6節~10節やコロサイ書2章8節~23節で、同じ使徒
パウロは、特定の季節、祝祭日を主張し、特定の食物を食べる‥食べてはいけない‥
などと主張しているクリスチャンたちに対して、ロマ書14章とは違って、厳しい言葉
で警告を発しています。
これは、明らかに当時の地中海沿岸の諸教会に浸透し、蔓延していた二元論の悪い
影響を意識してのことです。 グノーシスの影響に厳しい姿勢を示しているのです。
すなわち、「信仰の強い人」たちに対しての警告です。
★ こん日の世界中のキリスト教のほとんどが、実は、使徒パウロが厳しく警告した
特定の季節や月日を、「あたかも聖書が語っているかの如く」に説き教え、奨励し、
実行しているという事実です。
『そのようなことを聖書はまったく知らないし語ってもいない!』と唱えることの
ほうが、「おかしい」と、そのようになっているのが現状です。
聖書が語らない月日や季節を強調するのではなく、聖書が語らないことを祝うので
はなく、聖書が語り、指し示す十字架の栄光の主イェスと、その死と、その埋葬と、
その復活と、その昇天と、その再臨こそが、聖書が語り伝えるメッセージであるので
す。 降誕節、レント(大斎節)、灰の水曜日、復活祭...いろいろとありますが‥
★ 『この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたは自分の知らないものを拝んでいるが、私は知っているかたを礼拝している。
まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。
そうだ、今きている。 父 は、このような礼拝 をする者たちを求めておられる』
イェスはこのようにサマリヤのスカルの町はずれの井戸端でサマリヤの婦人に語っ
ておられます。 ヨハネ傳4章1節~26節です。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分の内に宿っていることを知らない
のか』...『あなたがたは知らないのか。 自分のからだは神から受けて、自分の内に
宿っているのは聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないの
である。 あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。 それだから自分のからだ
をもって、神の栄光を表しなさい』...と、コリント前書3章16節と6章19節~20節で
使徒パウロは個人個人の在り方に関して力説しているのです。
★ 『主の死とその来たり給う時にまで及ぶ』という、主の食卓こそ私たちが集まり
覚えるべき厳粛なひとときであると確信します。 コリント前書11章26節です。