なまぬるいラオデキヤ


★  温泉に関する自然環境に恵まれている日本人の多くは、当然のことでしょうが、
温泉に浸ることが好きなようです。  ここ十数年ほどの間に八ヶ嶽南麓各市町村でも
「村起し」という名目でお互いに競いあって温泉を掘りました。  自由党政権の時に
各市町村に1億円をばらまいて地域起こしということも影響したかと思います。

  余りにも多くの温泉が掘られたので、八ヶ嶽南麓の地下水が、やがてその内に枯渇
してしまうのではないかと、温泉にほとんど興味を示さない私は案じたことがありま
した。  獨逸にも温泉が湧き出る所があり、人々が保養のために行くそうです。

★  さて、黙示録3章14節にラオデキヤという地名が出て来ます。
そこにある教会に対してヨハネが警告を発しています。  ラオデキヤ教会の信仰姿勢
が、『冷たくもなく、熱くもない。  むしろ、冷たいか、熱いかであって欲しい。
熱くもなく、冷たくもなく、「なまぬるい」ので、あなたを口から吐き出そう...』と
率直に述べています。  この言葉は、こん日の私たちにとっても耳が痛い警告です。

★  地図で見ますと、トルコ半島西端に近い所にあるエペソから東南東に約150km の
距離にあり、標高2、300mのサルバコス山北部にある沖積層の平坦な丘陵地帯に
位置する町だと聖書事典などに紹介されています。

  1970年代なかばに、疲弊しきっていた韓国農漁村や都市貧困層の未就学幼児たちの
ために託児所と給食計画の実施を依頼するために、トルコ上空を3回にわたり東から
西に飛んだことがあります。  トルコ半島全体が白色の山脈から成立しているように
高度1万メートルの上空からは見えました。  しかしラオデキヤ上空を通過したのか
どうかはわかりませんでした。  複雑な歴史の豊かな半島であろうとか思いました。

  ローマ帝国の古い町で、捕囚ユダヤ人が解放されたあと7千人が居住した町だとの
説明がありますが、詳しいことは省きます。  町を再建した帝の夫人ラオディケの名
を採って命名した町だそうです。  「民の正義」という意味の名だそうです。

  紀元前60年に大きな地震があり町は破壊されましたが、国庫補助を断った市民たち
の努力で再建され、羊毛の生産や布地生産で富める町と成長したそうです。
  薬の学校があったため、薬でも儲けたそうです。  黙示録3章18節に記されている
「塗り薬」という言及の背景だそうです。

★  しかし、高原地帯に町が位置していたために、飲料水で困っていたそうです。
町の中心地に水源はなかったようです。  10kmほど離れた町、ヒエラポリスに温泉が
あったそうですが、苦い水でしたので、町の飲料水としては使えなかったそうです。
  飲めたとしても、ローマ軍の特技で水道を掘り、町まで温泉水を引いたとしても、
冷めてしまって温泉水としては役に立たなかったはずです。

★  ヒエラポリスの温泉と反対側のほぼ同じ距離の所に、デニズリという町があり、
そこにも温泉があったそうです。  冷泉だったそうです。  この源泉から同じように
水道を掘ってラオデキヤまで水を引いて来たとしても、町に到着した泉水は冷たさを
保つことができず、飲料水として、なまぬるい水に変わってしまっていたのです。
こうして、ラオデキヤの人々が飲める水は、「なまぬるい水」であったのです。

★  そのような地形状況がラオデキヤに「なまぬるい水」をもたらしていたのです。
そのことを黙示録の著者ヨハネは、当然ですが、熟知していたものと思います。

  『あなたがたが冷たくもなく、熱くもないので、あなたを口から吐き出そう...』と
黙示録3章16節は言っています。
  この「吐き出すemesai」は嘔吐という強い意味を表し、決して美しい表現ではあり
ません。  英語 emission の光、熱、電子、電磁波などの放出、放射、の原語です。

  イェス・キリストを神の独り子、私自身の救い主だと信じた筈の自称クリスチャン
が、イェスに対する嘗ての情熱をいつの間にか喪失し、この世の力に押し流されて、
この世に見習う者となり、イェスへの忠誠な在り方を結果的に失ってしまっている...
ことを、「なまぬるい」状態にいる‥と指摘しているのです。
  誰であっても自分がそのような状態に在り、そのような存在だと認めたくない状態
にいることを、「なまぬるい」という言葉で的確に表してしているのです。

  しかし残念なことですが、クリスチャンでない人々、すなわち、わが国のほとんど
の人々が私たち『主よ、主よ』と呼ぶ者たちを見るとき、この世の人々もイェスも、
私たちが本当に誠実な「キリストの者、キリストに属する者=クリスチャン」として
見ていないであろうと、そのように私個人は考えています。

★  インドの偉大な指導者マハトマ・ガンディーが語ったということですが...
  『イェス・キリストよ、私はあんたが好きだ。  だけどキリストよ、私はあんたの
「クリスチャンと自称している人々」を好きになれないんだ。
  「クリスチャンと自称している人々」よ、あんたたちは、あんたたちのキリストと
は、まるっきり違い過ぎるじゃないか!』

★  誰でも自分が、まさか「なまぬるい」クリスチャンである‥とは考えていないと
思います。  誰でも自分がそうのような「なまぬるい」クリスチャンでありたいと
望んでいないと思います。  神さまの一方的な恩寵に応えている自分だと確信したい
のが私たちのはずです。  しかし自分の行動がそれをどう証明しているのでしょう?

  主イェスの口から「吐き出されてしまう」ような「なまぬるい」者にならないよう
に自分自身の信仰を、もう一度はっきりと十字架の主イェスに定めたいと願います。


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