私たちのド真ん中にある神の国


★  すでに幾度か述べましたように、クリスチャンと自称する人々にとttれも、そう
でない人にとっても、神の国とか天国とか言う言葉を聞くと、それを「死後に行く世界
のことだ」と捉えることが多いようです。

  そういう考えは聖書の中にもあちこちに出て来ますし、黙示録にも表れています。
たとえば黙示録20章や21章には、具体的に「新しい天と地」とか、「聖なる都」とか
「新しいエルサレム」などとして紹介されていますし、それはそれでよいと思います。

  しかし、そういう可視的な、この世的な発想、すなわち、私たち人間が考えがちな
未来の場所や時間の範囲の中に神の国とその到来を限定するのは正しくない・・・と
考えています。  留学中に叩き込まれた「千年王国」をはるかに超えた発想です。

  また人間は、人間の能力をはるかに超えた自然が織りなす山河自然を眺めるとき、
神を思い、その創造の業を誉め讃える傾向があります。  これも自然なことです。
  しかしそれでは可愛い嬰児の顔を眺めれば神を思う・・・というのと同じこととなり、
顔をしかめたくなる光景を目にすれば神はいない・・・ということになりかねません。

  そういう視点で物事を見ますと、ハイチの地震を見れば、神や神の国がないこと
になります。 スラムには神がいない・・・という危険な誘惑と誤解が生まれて来ます。

  しかし現在では、神はどこにでもいらっしゃる・・・と確信しています。
神の国は、人間が考え得る場所や時代を超えたものだと確信しているからです。

★  イェスの名によって、いと小さき者に対してコップ一杯の飲み水を提供する時、
そこにイェスが居られ、イェスの微笑みと頷きがあるとマタイ傳10章42節や25章40節
が証言しています。  イェスが居られる「所と時」は、人間の感情や人間が置かれ
ている環境や状態で決まる、決められる・・・というようなことではありません。

  マタイ傳5章3節~10節の、いわゆる「山上の垂訓」でイェスは、そこに描写され
ている人々のあいだに神の国がすでに存在していることを語っておられます。
  マタイ傳12章28節にも『神の国はすでにあなたがたのところに来た』とイェス
自身が語っておられます。
  またさらに、イェスの名によって二、三の者が集まる「所と時」には、主イェスも
そこに共にいらっしゃると、イェスは同じマタイ傳18章20節で語っておられます。

★  そうかと思うと、いわゆる有名な「主の祈り」の原形のマタイ傳6章9節~
13節とルカ傳11章2節~4節でイェスは、『御国が来るように』祈ることを教えて
おられます。  明らかにその時点では未来形です。

  同じように、主の食卓に主イェスご自身が私たちを招いてくださり、それに応え
て私たちが与るたびごとに、主の十字架の死と、主の再臨を私たちが覚えるよう
にと、コリント前書11章26節は教えています。  明らかに再臨と神の国の到来は
未来のこととなっています。  そのことをテトス書3章12節は、イェス・キリストの
再臨の約束が私たちにとって祝福に満ち溢れた希望、待望すべき大いなる希望
であると、堂々と告げています。

★  このように、「神の国」とは神にのみ属するものであって、人が理解する、
理解できる「時と所」をはるかに超えたものであると、私は確信しています。
それは、神ご自身と、神の偉大さを人が理解できないことと同じでしょう。

  イェスはヨハネ傳12章35節で、イェスと一緒に居た者たちに、「光があるあいだ
に光の中を歩むように」・・・と教えておられます。  この場合の「光」とはイェスご
自身であり、イェスが居られることは神の国の一部です。

  今週、主イェスが共にいてくださっていることを確かに覚えて、神の一方的な
恩寵の内に感謝して再臨を待望しつつ光の中を歩む者でありたいと心から願い
ます。

 ルカ傳4章18節~19節<<< ひとつ前の記事は | 次の記事は >>> 雪の中のキツネたち
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