らっきょう、らっきょう、花らっきょう  むいても、むいても、皮ばかり

★  また、むかしのことから始めます...
先の太平洋戦争を敗戦で迎えた半世紀少し前の日本の惨状は悲惨なものでした。
今では想像すらできない時代でした。  一般国民は物心両面で完全に疲弊した逆境に在りました。  戦争というものは、どのような理由でも、絶対にしてはいけません。

希望が全く見えないように思えていた時代に、神さまの不思議な恩寵により、一般国民の海外留学など思いも及ばなかったときに、時の世界の理想郷と信じられていたアメリカに聖書を学ぶために留学することを得ました。全く奇蹟的なことでした。

赤貧留学生であったため、厳しい状態の中に自分自身を見いだし、多くの戸惑いと悩みを体験しました。  留学するための着衣すらなく、新宿駅北東口一帯を支配していた小津組の闇市でアメリカ製の中古背広と襟の擦り切れたYシャツを購入し、寸法を縮めてもらい、襟は裏返しにして貰って、キューキューと音がする靴を履いて貨物船に乗って太平洋を渡りました。

アメリカにも石鹸はないだろうなどと思い、闇市で石鹸をたくさん購入して持参しました。西海岸に到着したとき、あまりにも豊かな緑の崖の上の森林の中に点々と建っている白い住宅を見て、絵本の中の理想郷の絵を見ているような衝撃を受けました。これじゃ戦争に負けるのは当たり前だ‥と実感しました。

早く着き過ぎたので40日間をグレイハウンド・バスで各地をまわりながら、目的地であるケンタッキーのウインチェスターに辿り着きました。言葉も食生活もわからず、お金もなく、バス旅行中の40日のほとんどをハンバーガーだけで過ごしました。

ウインチェスターの町で歯磨き粉を買いに行きましたが、そのような品物はありませんでした。戦時中と戦後の日本では歯磨き粉があれば恵まれていたのでした。
お店で大きな歯磨きチューブのような商品を見つけました。  さすがにアメリカは大きな国だ、お金持ちの国だ!  こんな大きな安い歯磨きチューブがあるなんて!
なるべく安くて大きなチューブが得だと思い、そのようなものを1本買って寄宿舎で使おうとしました。  口に入れたとたん、吐き出してしまいました。  学友たちは大笑いをしていました。  脱毛クリームという品物がこの世の中にあるなど、想像だにしなかったことでした。  このような失敗をたくさん毎日やっていました。

★  食料品を売るスーパー・マーケットに行きました。
見たこともないような種類のたくさんの新鮮な野菜類を見てこれまた驚きました。
当時の日本では野菜に人糞を使うのが当たり前だったのです。
その中でも記憶が残っている驚きは、いろいろな色をした大きなピーマンでした。
これは、今で言う、いわゆるパプリカのことです。

神学校の食堂で出されたサラダに紫色を帯びた玉ねぎの薄切りがあり、これもまた驚きでした。  こん日の日本では今や珍しくもなんでもない野菜ですが‥

★  毎週金曜日午後になりますと日曜日の愛餐会用食材の買い出しに出かけます。
先日の金曜にマーケットに出かけたとき、きれいな色をした大きなパプリカや紫玉葱を見ました。そして半世紀以上前の留学先で体験した衝撃を思い出したのです。

農家を多くかかえた当地のスーパー・マーケットでは、らっきょうを漬ける時期になりますと、らっきょうを売り出しています。難しい漢字では辣韮と書きます。

きれいな色をしたパプリカであれ、紫玉ねぎであれ、らっきょうであれ、共通点があるように思います。それは、むかし幼かった頃に耳にした歌に、『らっきょう、らっきょう、花らっきょう、むいてもむいても皮ばかり‥』というものと関係があります。  らっきょうや紫玉ねぎの場合、どれだけ皮をむいても中心核がないのです!
美しい色をしたピーマン、パプリカの場合、それが緑色であれ、赤色であれ、黄色であれ、橙色であっても、皮を割れば中身は空っぽなのです。

★  さて、前置きがいつものように長くなり過ぎましたが...
クリスチャン人口が総人口の0.5%にも満たないという日本にあって、クリスマスの時期になりますと、ずいぶんとお金のかかった、多色刷りの宣伝文献や資料が教会に関係する団体などから送れて来ます。それらの「ゴミ」の処分で困っています。

美辞麗句が並んでいる厚顔の寄付依頼状もたくさん送られて来ます。
また、いろいろな団体からクリスマスを当てこんだいろいろな企画案内書が郵送されて来ます。戦前・戦中・戦後と比べてみますと、みんなきれいな多色刷りです。
1960年代の初めころの教会では、まだ「ガリ版刷り」というものが主流でした。

しかし現在の多色刷りの奇麗な案内文に、イェス・キリストとその十字架を思わさせるような誠実さを感じることができなくなっています。  奇麗な大量色刷り印刷のただの紙切れ、売らんかな売らんかな精神でいっぱいの紙切れだけです。

この国にあっても、分不相応とも思えるような大きな豪華な教会堂を建てて、いろいろな宗教行事をたくさんこなしている教会も多くなりました。  もったいない話だと思います。  建てればその維持管理に心を奪われる結果を生んでしまいます。

先日、或る牧師の葬儀があり出席する機会がありました。
式を仕切ったのは、いろいろと噂の絶えない、或る教団でも手を焼いているとかの、言葉使いだけは優しそうな中年「牧師」でした。  他界された牧師個人を褒め称える話が延々と続きましたが、主イェスの十字架も御国での再会の希望も確信も欠落していました。ところてんか今問題になっているこんにゃくゼリーのようなものです。

★  これらのことを考えて見ますと、共通点があるように私には思えるのです。
ピーマンやパプリカや、紫玉ねぎや、そして、らっきょうのように見えるのです。

外側は実に奇麗で、派手で、見かけに文句はないのですが、その中心に核がなく、中身が空っぽで、クリスマス時期を利用した商業主義か、「キリスト教」という名目を利用した、中心核であるはずの主イェスが不在の派手なお祭り騒ぎのように思えるのです。酷でしょうか?  むいても、むいても皮ばかり‥  これでは困りますね!

この国も、この国のキリスト教関係の諸団体も、そして自称「クリスチャン」も、『何かおかしい! Something must be wrong!!』と私は思います。浮き草のようなもののように思えます。根っこが大地深くに根づいていない浮き草のようです。
商業主義に踊らされてしまって、実に安っぽいキラキラ輝くクリスマス・ツリーのライトや飾りつけか、それとも派手な色彩の飾りつけをいっぱい取りつけた砂上楼閣のような感じがしているように私には見えるのです。  着色らっきょうのようです。
イェスが御覧になれば、いったいこれは何なのか?とお尋ねになることでしょう。

 

『私に向かって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国に入るのではなく、

ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけが入るのである』

 (マタイ傳7章21節)