-マタイ傳25章21節-
★ 1800年代から1900年代前半ころまでの欧米キリスト教界ではキリストの再臨と
いう題目が大きな重みを占めていたように思います。 千年王国論争が盛んでした。
私がアメリカに留学したときには、そのことに関する意見の違いで、教会が割れて
大論争が起こっていました。 否でも応でも、好むと好まざるとに関らず、私も論争
に巻き込まれてしまい、不愉快な留学体験を強いられたものでした。
今でも一部の教会では、イェスが文字通りエルサレムに再臨され、そこにダビデの
王座を築き、世界を支配される...と説いています。 聖書が開かれた書である限り、
いろいろな聖書解釈が成り立ちます。 みんな人間の解釈なのですが、あたかも自分
の解釈だけが唯一正しいと主張するので混乱は絶えません。 困ったことです。
★ 留学を終えて帰国してすでに半世紀以上が過ぎました。 私も巻き込まれた論争
が余りにも悲劇的であったので、私は、帰国後ほとんど終末のことを敢えて語らない
で来ました。
しかし自分自身の終焉が近づいて来ている最近では、「神の国」のこと、「再臨」
のことを、自分なりに独りで静かに考えるようになりました。 楽しい特権です。
★ 『宜ヨ いかな、善かつ忠なる僕シモベ 、汝は僅ワズカ なる物に忠なりき。
我、汝に多くの物を掌ツカサ どらせん。 汝の主人の歓喜ヨロコビに入れ』
マタイ傳25章21節
口語訳では、『あなたは僅かなものに忠実であったから』と訳してあります。
神さまは、小さな物事、僅かな物事をも誠実に行うこと、渇いたいと小さき者の一人
のためにコップ一杯の冷たい水をあたえる者に対して、そのことが、神さまに対して
行われたことと同じであると御覧になっていることを学びます。
★ 聞いた話ですが、田舎で教会堂を建設することがありました。
牧師は教会員に、『いちばん良く働いた人を表彰します...』と発表しました。
このことを聞いた関係者たちは、設計士も、大工も、石工も、水回り職人も、井戸
掘り屋も、屋根葺き工も、塗装工もみんな一生懸命に働きました。重たい土台石や木
材など、建築材料を搬入するために使われた馬でさえもよく働いたのです。
こうして表彰されたいと願う全員の努力で立派な教会堂ができ上がりました。
表彰式の日が来ました。 自分こそ表彰されるかも知れないと期待していた全員は
緊張した表情で発表を待ちました。
しかし牧師は、全員が想像もしなかった、名もない、近所に住む貧しい老婆の名を
挙げたのです。 それは、表彰式などということにいっさい関心を示さず、いろいろ
な重い建築材料を現場に運び込んでいた使役馬の世話をし、飼葉を与え、水を与え、
毛を梳き、脚の世話を黙々としていた、現場の傍に住んでいた貧乏な老婆の姿を牧師
は見落としていなかったのです。 マタイ傳25章21節の、「忠なる僕」の姿を牧師は
老婆に見出していたのですが、老婆はそんな牧師のことも意識していませんでした。
★ いと小さき者が乾いていたとき、その者に冷たい水コップ1杯をあたえることの
大きな意味をイェスはマタイ傳10章42節や25章40節で淡々と語っておられます。
もちろん上述の25章21節も同じです。 小さなことにも誠実に接することの重要さ
をイェスは語っておられます。 目立つことなら多くの者がやりたがりましょう。
しかし、隠された、目立たない、小さなことに対して忠実に仕えることが大切だと
言うことを、イェスはマタイ傳6章1節~18節で説いておられます。
大きな都会の大きな教会堂に集まる礼拝だけを主が喜ばれているのではありません。
★ 『エホヴァは全世界をあまねく見そなはし己に向かひて心を全する者のために力
を顕したまふ』と文語訳歴代志略下16章9節は述べています。
それは、まるで地上のあらゆる物体を監視しているスパイ衛星のように、神さまの
目が全世界をなめ回すように行き巡って、神さまに対して「全き心」を持つ者を捜し
求めておられるという意味です。 「全き心」とは、上述のように、小さなことに対
しても誠実に接するという意味でしょう。
★ このこととの関係で歴代志略上28章に大切なことが記されています。
9節は、「全き心」を持つ者は、喜び勇んで神さまに仕える...と記されています。
続いて21節では、神殿を建てることに従事した者たち、「諸々モロモロの役事をなす」
働き人たちが、「悦ヨロこびて為ナス」...と記されています。
神さまのために各自に割り当てられた仕事を喜んですることが大切だという意味で
す。 そうでなければ神殿建設作業は進みません。 各自に与えられた責務が小さく
見えても、自分一人くらい手抜きをしてもバレないだろうと思えるような些細な勤め
でも、誠実に喜んですることが重要なのです。 そのことが「全き心」なのです。
★ 神殿建設に喜んで参加した...という上記の記述との関係で、列王紀略上6章7節
でも大切なことが書かれています。
神の「家を建タツる時に...鑿石所イシキリドコロ にて鑿キリ預備トトノヘたる石にて造れる間アヒダ
に家の中ウチに鎚ツチも鑿ノミも其外ソノホカの鐡器テッキ も聞キコえざりき」とあります。
すなわち神殿建設の中心的な役割を担った石工たちが、自分たちの素材を建築現場
に持ち込んで、そこで作業をするというのではなく、あらかじめ別の場所で切り整え
ておいた完成部品を持ち込んだということです。 いわゆるプレハブ工程です。
それで建設現場では、叩いたり、切り刻んだりする金属音がしなかったのです。
★ いつでも神さまの御用に役立てるように備えをしておくということは、託された
作業を、たとえそれがどんなに小さなことのように思えても、無意味なように見えて
も、誠実にこなして行くということが大切なのです。 「全き心」ということです。
最初に紹介しておきました教会堂建築の話の中に登場した、表彰を意識しないで、
目立たない仕事を、目立たない場所で、手抜きしないで、他人の目を意識しないで、
人が嫌がるような仕事、すなわち使役馬に餌を与え、世話をしていた老婆のように、
私たちも、教会堂でかっこいいことを言ったり行ったりすることではなくて、日々の
生活の場で、与えられたことを喜んで行うことに忠実でありたいと願うのです。
『また為す所の凡ての事コトあるひは言コトバ あるひは行為オコナヒみな主イェスの名に
頼ヨ りて為し、イェスによりて父なる神に感謝せよ』とコロサイ書3章17節は諭して
います。 如何でしょうか? (今回は文語体聖書から引用しました。)