『教会ゴッコか仕え合うのか』


★  南アフリカの説教者で2百冊余の信仰関連の書を書いた先輩に、アンドリュー・
マレー Andrew Murrayという優れた先輩がいます。
  私の英語書籍のすべてを母校ペパダイン大学の「教会遺産センター」に寄贈しまし
たので、マレー牧師のことを詳細に紹介することが全くできなくなりました。

★  健康を害して苦しんでいたとき、マレー牧師は辛い体験を因にして、以下のよう
に語ったことがあったそうです。  それは病気で彼自身が謙虚にされ、仕えるという
ことに関して考えたこと、即ち、「謙虚にされるということと仕えるということ」で
した。  そのようにサンディエゴのジェレマイア牧師から伺いました。

★  世のなかには、そしてキリスト教世界のなかには、多くの著名な教授や、有名な
牧師がいるし、よくやっている伝道者や、教会のためによく働いている人々も多い。
宣教師もいるし、先生も多くいる。
  これらの人々には聖霊の賜物がたくさん与えられ、託されている。
実に多くの人々のために、これらの人々が祝福の器として用いられていることも事実
である...  と、以上のようにマレーは語ったそうです。

★  しかしこれらの祝されたはずの人々に、ひとたび何か試練が訪れたとき、或は、
これらの祝された人々とさらに親しく個人的な交わりを持つことができたとき、一般
の人々が知らない彼らの内なる人となりに接するとき、それらの人々の内に、ずっと
留まっているはずの、彼らの不変の特性であるはずの謙虚さという美徳を、あでやか
さを、実は見いだすことができないことがあると、マレーは気づいたというのです。

★  私たちは「教会に行きますがchurch going」、時として私たちは間違った理由で
「教会に行く」ことがあるようです。  何か格好よく人々に自分を印象づけるためと
か、人々から褒め言葉を貰いたいから「教会に行く」というようなことがあるようで
す...と、このようにマレーは語っていたそうです。

★  マレーが更に語ったことというのは、そしてそれが大切な部分だと思いますが、
「教会に行く」目的は、そこで神を礼拝し(=仕えて)、さらに人々に仕えることで
なければならない...ということです。

★  英語の「仕えるto serve」という単語には、「神を礼拝するto worship God」と
いう意味をも含んでいるのです。  これはベタニヤ通信で私も強調している点です。

★  マレーが語った言葉で印象的なものがあります。
『Humility is the only soil in which the graces root. 』という一句です。
仮私訳してみますと、『謙虚さというものは、いろいろな美徳が根を張り育って行く
ために必要な唯一の土壌なのである...』ということになりましょう。

  ガラテヤ書5章13節は、『愛をもって互いに仕え合いなさい』と教えています。