★ キリストという名を冠した宗教団体、いわゆるキリスト教会という人間の集団の
大きな問題のひとつに、キリストという名をつけ、キリスト者だと自称し、他称する
人々が、それではほんとうに「キリストに属するもの」であり、「キリストの弟子」
であるのかどうかということでしょう。
キリスト教会という箱物に集まるだけで、箱物の中で、まことしやかにキリストの
名を使った宗教行事を営むだけで、そこに集まっている人々が「キリストの弟子」で
あるのか...ということでしょう。
★ 使徒パウロというイェスの弟子は、コリントに集まっていたクリスチャンたちに
手紙を書いています。 コリント前書15章3節~4節で、『キリストが死なれた。
私の罪のために』と書き遺しています。 これはとても大切な個人的信仰告白です。
『キリスト・イェスが私の罪のために死なれた』...この信仰告白を、いわゆる教会
に集まっている自称・他称クリスチャンが、本当に信じて、日々の生活で信仰告白を
実践しているのか...、このことが問われているのです。 これが大問題なのです。
★ イェスの弟子たちは、奇蹟を行い、病める者を癒し、死せる者をよみがえらせた
イェスの傍で共に生活し、『おいらはイェスという偉い先生サマの弟子なんだぞ...』
と、たぶんエリート意識に満たされて、常にイェスの後を追いかけていたおびただし
い群衆を前に、あたかも自分たちも神の子のような錯覚に陥り、威張り散らしていた
ものと私は推測しています。 これが宗教という酒の恐ろしさです。
★ イェスと行動を共にしていた弟子たちは、悩み苦しむ多くの人々に対してイェス
が愛の奇蹟をたくさん目撃していました。 しかし、イェスと共に居るという優越感
に浸ることがあっても、イェスの愛の奇蹟の業を目撃しながら、一度もイェスを神の
子として賞賛したこともなく、神の子として信仰告白をしたこともなかったのです。
★ マタイ傳14章33節に到って初めて弟子たちはイェスを神の子と告白したのです。
イェスと一緒に居るということと、イェスの弟子であるということは同じではないの
です。 全く別の次元のことです。 教会堂という箱に入ることが主イェスの弟子で
あるとか、クリスチャンであるということでは必ずしもないのです。
真剣な信仰告白と実践を伴わない自称クリスチャンほど哀れな存在はないのです。
ヨハネ傳20章28節でトマスは、『わが主、わが神』と、悔いたあと告白しています。